Archive for 6 月 12th, 2010

幸せな職業『モリー先生との火曜日』加藤健一事務所

モリー先生との火曜日んな仕事にもしがらみがある。人間関係は煩わしく、ストレスは溜まる。人は何のために働くのだろうか。有名な「マズローの欲求」によれば、人間の欲求は低次から次段階を目指すという。第一段階の欲求は「生理的欲求」。生きるために衣食住を満たしたいと思う段階。次は「安全の欲求」。経済面、健康的などの安全・安定を望む段階。そして次は「親和の欲求」。集団に帰属する、他者に受け入れられたいという欲求。さらに次の段階は「自我の欲求」。自分が集団の中で認められ、尊重されたいという欲求。そして最終的には「自己実現の欲求」となり、自分の持つ能力を最大限に発揮し、具現化したいと望む欲求ということになる。

事に置き換えると、経済的な理由で働くという段階から、その安定を求め、集団に帰属しながら、その中で認められ(昇進、昇格)、最後はエキスパートとして、道を究めるということになるのだろうか。一方で職業とは何だろうか。会社員というカテゴリはなく、小分類では、デザイナー、編集者、SE、アナリスト、ディーラー、コンサルタントなどというものが職業に当たる。自己実現とは、その職業において、エキスパートになること、極めること。

優という職業がある。映画俳優、TVが主な活躍の場である者、そして舞台を中心に演じる者がいる。加藤健一という役者がいる。彼は舞台俳優と呼んでいいだろう。稀にTVに出演する(かつて『思い出づくり』『金曜日の妻たちへ』などに出演した)こともあるけれど、一人芝居『審判』をやるために自分だけが所属する加藤健一事務所を30年前に立ち上げ、以来ずっと舞台に立ち続けている。芝居が好きな役者を招き、ニール・サイモンや北村想などの内外の脚本を演じている。キャスティングから演出、音響、美術なども自らがプロデュースする。舞台で演じる役者であり、舞台を創るプロデューサー。そして、1986年に俳優教室を設立し、若手の育成も行っている。

加藤健一事務所藤健一の舞台を初めて観たのは1988年。『ザ★シェルター』という作品。加藤健一事務所VOL.7公演。以来、ずっと彼の舞台を観続けてきた。…ある週末、30周年記念VOL.75公演『モリー先生との火曜日』を観た。ルー・ゲーリック病(ALS)に侵された教師モリーと、最後の講義を受けるために毎週先生を見舞った教え子ミッチのノンフィクションを基にした物語。「どう死ぬかを学べば、どう生きるかは自ずと分かってくる」そんな重い台詞のひとつひとつが、それでも軽やかに、明るく伝わってくる。相変わらず良い芝居だ。そして悲しいけれど幸せな物語だ。ホームグランドとも言える本多劇場の客席は、加藤健一と共に年齢を重ねたファンで埋まっている。自らの職業感に疑問を持ち、モリー先生を訪ねることになったミッチ役の高橋和也(元 男闘呼組)も良い演技だ。

30年間、芝居だけで“食える”幸せ。年間に何十本も脚本を読み、その中から自分の気に入った脚本を選び、一緒に演じたい俳優を招き、自分の舞台を創り、その客席が埋まる幸福。決してメジャーな役者ではなく、韓流的に美形な俳優ではなく、というよりは顔も大きく、歳も取った。けれど、加藤健一は幸福な職業を選び、自己実現を果たした。最後まで先生という職業を全うしたモリー先生と加藤健一がダブった。彼の選んだ脚本や演出や演技に、涙が溢れる前に頷き微笑んだ。彼は幸せだよねと妻に問うと、「そうだね、幸せな職業だね」と頷いた。「やっぱり私は早く仕事を辞めたいなぁ」彼女の憧れの職業は、芝居を観て、スカッシュをして、美味しいモノを食べるお気楽な妻。あれ?既に実現していないか?

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