親父の背中「BAR LAPITA 閉店」

Lapita1染みのバーが閉店するという便りが届いた。2010年夏に開店し、5年余り営業してきた店のささやかな歴史の幕を閉じるという。店の名前は「LAPITA」。長弟が長年務めた市役所の早期退職制度に応じ、独立して開店した店だった。さっそく妻に伝えると、「だったら閉店前に店に行かなきゃね」と即断。相変わらず男前の妻。春に忙しい彼女の最繁忙期なのに、スケジュールを調整し、あっという間に旅の手配を済ませた。6年前の春、開店準備中だった弟が上京した際、参考になる店を案内して欲しいという要望に応え、1日で6軒の店をハシゴした。自由が丘と恵比寿のスポーツバー、立ち飲みバル、先輩が経営するオーセンティックなバー、明大前のスポーツバー、そしてお気楽夫婦の住むマンションの1階にあるベルギービールのバー。深夜、やはり繁忙期だった妻がその店で合流した。そんな懐かしい記憶が蘇る。

Lapita2の名前は小学館の雑誌「ラピタ」に因んだとのことだった。雑誌ラピタのコンセプトは、オトナの少年誌。彼の店の佇まいも、その名の通りだった。店の奥には客が持ち込んだドラムセットやギターが置いてある。貸切営業の際に、客が楽器を持ち込んで演奏することも多かったらしい。壁面には大きなモニター。ヨーロッパサッカーの中継、懐かしい映画、好きなアーティストのライブ映像などを、時に客のリクエストに応え、時に(多くは)マスターの趣味で流していた。壁を飾るアルバムジャケットは、キングクリムゾンの「ポセイドンのめざめ」、ジョン・レノン「ダブル・ファンタジー」、ブルース・スプリングスティーン「ネブラスカ」、森田童子「グッドバイ」など、マスターの音楽嗜好を色濃く反映していた。マニアックではあるけれど、偏狭なのではなく、節操がないだけ。決して嫌いではないし、寧ろ好きなチョイス。

Lapita4のつまみは出前が基本。近所の焼鳥屋、寿司屋、ピッツェリアから料理を届けてもらい、時にマスターが自ら調理した。締めのカレーだったり、ビーフシチューとバゲット、地元料理の孟宗汁、玉こんにゃくのおでんなど、限定的なメニューながら好評だったようだ。妻が好きだったのはおつまみのビュフェ。駄菓子屋風に並んだ柿ピーやポテチ、小袋のおつまみを自由に選んで菓子鉢に入れるというスタイル。自宅で寛ぐように、ぽりぽりと柿ピーを齧っていた。壁一面のラックには’80〜’90年代中心のCD、雑誌のバックナンバー、マンガの単行本などがたっぷり並んでいた。まったりとした空気が流れる店内は、友人の(マスターの)自宅に招かれて飲んでいるようなリラックスした気分になった。だからこそ、客を選んでしまったのかもしれない。友人知人でなければ店に入り辛く、和めなかったのかもしれない。残念。

Lapita5杯!お疲れ様でした!店をやっている間はほとんど自宅にいなかった長弟よりも、苦労があったであろう義妹に労いのことばを掛ける。深夜、閉店後に店のソファで仮眠し、出勤する義妹と入れ違いに帰宅するという生活は、どちらもたいへんだったと思う。3人の子供たちを育て、それぞれが成人する直前の5年余り、長弟の家族の時間が終わろうとする時期にこの店はあった。妻と一緒に入院した父親を病院に見舞う度に立ち寄った。お気楽夫婦にとっては、長弟家族が住む家よりも、この店こそが故郷の拠点だった。居心地の良い空間だった。「飲んでみて」最後の一杯に何か選んでくれとオーダーをすると、ジョニーウォーカーの免税店向けの限定商品が供された。久しぶりのブレンデッド・ウィスキー。何だかとてもしみじみと、美味しいけれど淋しい味がした。最後まで良い意味で素人っぽさが僅かに残った店だった。

店後のマスターは、地元の公民館の主事を専任で勤めるのだという。独立後の再就職先は、奇しくも亡き父が晩年携わっていた仕事だ。地元のコミュニティ作りを親子二代でやるのも良いかなと呟く長弟。父は長年勤めた公務員の仕事を辞め、亡き母と一緒にインテリア店を始め、そして地元で公民館主事、自治会長などを長く務めた。長弟の辿ってきた道は、父のそれと良く似ている。父の最晩年にはその活動が認められ、自治会として緑綬褒章を受けた。遠く離れて暮らしていた長兄(私)と違い、同居していたからこそ、互いに認めながらも反発し合っていた父と長弟。けれども結果的に、地元に残って父母と一緒に暮らした長弟は、そんな親父の背中を追っていたのだろうか。頼もしくもあり、些かの不安もある。再スタートすることになった、これからの長弟の行く末に幸あれと願うばかりだ。

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