Archive for 4 月 14th, 2018

お別れは突然に「Uくんを悼む」

Uchida1との出会いは、40年ほど前。日経育英奨学会(新聞配達の住み込みで学費と給与が支給される)の新聞販売店だった。同じ店に配属され、雨の日も、雪の日も、早朝に起き、自転車で日経新聞を配った。朝夕食付きではあるものの、二段ベッドのような小さな個室で1年を過ごした。良好とは言えない環境下、同じ“釜の飯”を食べた仲。1年後、彼は舞鶴にある「海上保安学校」に入学し、アテネフランセに通っていた私も店を出た。

Uchida2の後も彼との付き合いは続いた。山形出身なのに、日本海沿岸で育った私はスキーの経験がなかった。そんな私に古いスキーセット一式を譲ってくれたばかりか、スキー場に連れ出しボーゲンから教えてくれた。本格的な登山に誘ってくれたのも彼だった。故郷の山(月山など)に登った経験がある程度だった私を、穂高をはじめとした本格的な縦走で、山の魅力を教えてくれた。彼はスキーの先生であり、登山のコーチだった。

Uchida3ィンギーを買おう!と提案してきたのも彼だった。横浜勤務になっていた彼は、後輩の海上保安官と3人で中古ディンギーを買い、三浦海岸でセーリングをやろうと言うのだ。価格は1人3万円!船の保管も彼の叔母が住む野比の砂浜に、古タイヤを並べて陸置き。もちろん違法(時効?)だ。朝早く、すでに大勢の釣り客がいる中を縫って、波に戻されながら船を出し、釣り客に下手くそ!と言われながら貧乏ヨットを楽しんだ。

Uchida7浜の彼の独身寮から、三浦までの往復は彼の愛車「サニー」でのドライブだった。クーラーのない中古の車で、快適に走っているうちは良いものの、夏の海水浴シーズンに渋滞にハマると悲劇だった。とは言え、横須賀出身の彼は、裏道をよく知っていた。車の中に流れる曲は、もっぱら「甲斐バンド」だった。帰路、寄り道をして「ここがYumingの曲に出てくる“山手のドルフィン”だよ」と教えてくれたのも彼だった。

Uchida4鶴での学生時代の彼を訪ねて、京都の街を一緒に旅したこともあった。思えば、男性の友人と2人だけで旅したのは、後にも先も彼しかいない。ある年の夏、私の貧乏学生時代に住まいを訪ねてくれたこともあった。制服での外出が義務付けられていたのか、全身白の制服と制帽で現れた彼を、吉祥寺の街に連れ出した。一緒にカウンターバーで飲み、『追憶』のR・レッドフォードを気取ってもらった。ただひたすら目立った。

Uchida5初の結婚の披露宴の司会をお願いしたのも彼だった。前妻曰く、変わった友人しかいない私にも彼のような友人がいたから結婚する気持ちになれた、という評価通りに(訥々としながらも)誠実な人柄通りの司会だった。その頃を境に、彼の全国転勤人生が始まった。年賀状を受け取る度に、その住所は広島だったり、離島だったり、東京近郊に戻ってくる気配がなく、会う機会がすっかり減ってしまった。

Uchida6が新潟勤務になった頃、彼の家族と共に山形に向かったこともあった。奥さまと2人の小さなお子さんと一緒にテニスを楽しんだ。振り返れば、会ったのはそれが最後になった。その後、私の再婚を知らせると、ちょうど新婚旅行に出かけている最中に、彼から何かが送られたと不在通知が入っていた。その頃、舞鶴勤務だった彼から送られてきたのは松葉ガニだった。カニは彼の元に戻り、残念ながら再送されなかった。

賀状のやり取りは続き、ようやく横須賀に戻ってきたとの報せがあったのは数年前。定年で退官したら一緒に飲めるかなと思っていた矢先、奥さまから訃報を知らせるメールが入った。3月末に退官後、再任地の下田で単身赴任を始めて数日、突然の病に倒れ、帰らぬ人になったと言う。妻と一緒に通夜に向かい、白い制服姿で微笑む彼の遺影にお別れの挨拶をした。Uくん、享年60歳。まだ早すぎるぞ!もう一度一緒に飲みたかった。妻を生前に紹介したかった。いずれも叶わなくなった帰路、妻と一緒に献盃とグラスを交わした。会いたい友人には、わざわざ機会を作ってでも会うべきだと痛感した。かつて、小笠原出張の写真を見せてもらったことがあったように、彼の転勤生活の話を聞きたかった。生まれたばかりの孫の可愛さを自慢して欲しかった。残念だ。つくづく残念だ。

Uくん、どうぞ安らかに。

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