サヨナラ「萬来軒閉店」

IMG_3148建民さんの直弟子だった店主の西脇さん(僕らはずっとただ“おぢちゃん”と呼んでいた)は、若い頃は毎年のように四川省の成都を訪れ、晩年も成都から食材を取り寄せていた。ご近所の名店「萬来軒」の開店は1979年。四川料理という呼称はまだ馴染みがない上に、「麻婆豆腐」に中国山椒を使う店はまだ少なく、客に辛い!と叱られたらしい。その痺れる山椒の麻味(マーウェイ)に魅せられ、30余年通い続けた店だった。

50836354_2249823678620339_7878772275040747520_nに教えず内緒にしておきたい店ではなく、友人たちを誘ってワイワイと食べるのが似合う、お気楽夫婦自慢の店だった。30年余りの間、延べ何十人もの友人たちを誘って一緒におぢちゃんの料理を味わった。美味しいと言われては喜び、また来たい!また連れて行って欲しい!と言われて嬉しい店だった。その店が42年の歴史を閉じた。ここ最近病気で入退院を繰り返していた、僕らの愛するおぢちゃんが亡くなったのだ。

IMG_2411婆豆腐だけではなく、「四川水餃子」がお気楽夫婦のお気に入りだった。大き目のワンタンのような餃子を茹で、芝麻醤が香るタレと辣油でたっぷりと和えてある。添えられた青菜の緑と、紅い自家製の辣油、胡麻と餃子の白が食欲をそそる色合い。味や香りはもちろん、見た目も、歯触りや舌触りも、絶品の一品。毎回飽きる事なくオーダーしてきたから、数十回は食したであろうひと皿だ。他にない、まさしくおぢちゃんの味。

IMG_0398海蟹の季節を待ち侘びて、秋になるといつもの仲間たちと集まる店だった。大勢でメスがに、オスがにを分け合って食べる楽しさ。いつの間にか自分専用のカニフォークを持ち込んだり、参加者全員にキッチンバサミをプレゼントしてくれるメンバーも現れた。お気楽妻は自宅から全員のおしぼりを毎回持参した。夫が妻にカニの身を選り分けるのも恒例。年に1回のイベントを皆が楽しみにしてくれていた。楽しい会だった。

IMG_0397売っ気のない店だった。「上海蟹、今年はLサイズにしたから、去年より100円だけ上げて1,900円にしました」と、申し訳なさそうにおぢちゃんが言った。麻布十番の高級中華料理店が1杯5,000円ほどの頃の話だ。「すいません。今日はいっぱいで」と新規の来店客を断るおばちゃんの声を聞いて、テーブル空いてるし!と皆んなでツッコミを入れた。「夫婦2人で食べて行ければ良いのよ」とおばちゃん。そんな店だった。

IMG_3144来軒のおぢちゃんが退院したから久しぶりに集まろう!といつものメンバーを招集したのは4年前。「この餃子が食べたかったんだよね」「麻婆豆腐も食べなきゃ」「坦々麺も食べたい!」といつもの味を堪能した後には、ホールに出て来てくれたおぢちゃんと記念撮影。痩せてしまったけど、まだまだ元気そうだ。「遺影になるんじゃないの」と、おばちゃんも相変わらずだけど、戻ってきたおぢちゃんの姿に嬉しそうだった。

IMG_1935れど、その後再びおぢちゃんの入退院の日々が続き、コロナ禍も重なり、店はしばらく閉まったままだった。何となく電話をするのも憚られ、何度も店の前まで様子を見に行ったが、店が開く気配はなかった。そしてある日、人伝におぢちゃんの訃報を聞き、閉まったままの店を訪ねた。裏口で迎えてくれたおばちゃんの案内で、店の中に置かれたおぢちゃんの遺影に手を合わせた。店内には手書きのメニューが壁に残っていた。

IMG_0394かしいメニューを眺めながら、牡蠣の辛み炒めがもう一度食べたかったなぁと、口に出すと自分の声が濡れているのが分かった。そこで慌てて、おぢちゃんの焼餃子が基準になってるから、他の店で食べる時、困っちゃうんだよねと、憎まれ口を叩いた。するとおばちゃんが「退院して戻ってきたら世話になったお客さんたちに食べてもらおうって、食材がいっぱい買ってあって、それが山ほどあんのよ」と話してくれた。涙。

IMG_4135サヨナラおぢちゃん。あなたはそんな人でしたね。早めに客が引いて、最後の客になった僕らと一緒に、実に美味しそうにビールを飲んでいた。「1本だけって言われてて、もうこれしか飲めないんですよ」と、それでも笑顔でビールを味わっていた。また一緒に飲みたかった。「やりたいこと全部やったからお迎えが来たのよ」と、久しぶりのおばちゃん節が聞けた。気丈にそう言うけれど、おばちゃんはやはり淋しそうだった。

「何か時代がひとつ終わっちゃった感じ」お気楽妻には珍しく、大袈裟な感想だ。でも、実にその通り。一代限り、いつか食べられなくなってしまうと覚悟していたけれど、その日がやって来てしまった。おぢちゃんの残した食材で、おばちゃんが餃子だけでも作ってくれる機会があれば、連絡をしてもらうことにして店を出た。当てにせず、それでも楽しみに待つことにしよう。合掌。

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