お気楽夫婦の「快楽主義」とは
2009年 6 月27日(土)
人の拠り所とは何だろう。人生を支えるもの、頼みとするもの。人によっては、宗教であったり、学問であったり、家族であったり、主義であったり、様々であろう。日本人の宗教観として、厳密には日常を支える唯一の神や宗教はない場合が多い。キリスト教徒やイスラム教徒のように神の守護がない日本人を支えるもの、それは共同体としての狭義・広義の「社会」だった。家族という最小単位の社会だっあり、ムラという名の地域社会だったり、企業という名のムラだったり、国家という名の幻想の社会だったり。
けれど、家族や地域コミュニティが崩壊し、企業は生涯雇用を終焉させ、国という範囲だけでは成立し得ないグローバルな社会が生まれた。日本人は、確固たる拠り所を失った。すると、残るのは何か。SNSやメールで繋がる、緩やかなネットワーク。友人や、友人と呼ぶのに臆してしまう本名さえ知らぬ“知人”たちとのソーシャル・ネットワーク。
その緩やかなネットワークに向って「快楽」の種を放出する。快楽の素を提示する。その快楽の素材によってさらに緩やかに繋がっていく。快楽の基にあるのは、リアルな体験であるけれど、ネットワークに掲示された時点で“情報”という名のヴァーチャルになる。
お気楽夫婦にとっての拠り所は、快楽主義。誤解のないように解説すれば、積極的に人生を楽しんでやろうという生活の仕方。罹患しても、楽しいね♬と呟く程度の、日常的な生活の中にある快楽のウィルスを、緩やかなネットワークに放出する。読む人が感染することを願って。
そんな些細なことが、お気楽夫婦の拠り所。お気楽夫婦の快楽主義。