再読のススメ『赤頭巾ちゃん気をつけて』庄司薫
2012年 3 月24日(土)
買った本が捨てられない。正確には、自分で買った本を処分できない。もっと正確に言えば、手に入れて気に入って読んだ本を手放すことができない。「本棚に入らないから捨てようよ!」といつもブツブツ言う妻に明確に答えられない、その捨てられない理由は何だろう。再度読み返そうと思った時にすぐに手に取れるということもある。読んだ時のことを背表紙を眺めながら思い出すのが好きということもある。老後にゆったりと読み返したいと思っているから、というのは言い訳に違いない。今も新刊が増え、全部を読み返すにはずいぶんと長生きをしなければならないだろうし。けれども稀なケースとして、実際に読み直してまた楽しむことがある。そして読み返してもなお色褪せないどころか、今でも輝き続けている、あるいは新たな輝きを持つ物語がある。私にとっては『赤頭巾ちゃん気をつけて』が、まさしくそんな作品だ。
作者は庄司薫。主人公の名前も同じ「庄司薫」という18歳の高校3年生。『赤頭巾ちゃん〜』に続く『さよなら怪傑黒頭巾』『白鳥の歌なんか聞こえない』『ぼくの大好きな青髯』を合わせた4連作の第1作め。それぞれの作品に冠された4色は、古代中国の五行思想における赤(朱雀)、黒(玄武)、白(白虎)、青(青龍)。それぞれ南北西東、人生の夏冬秋春を意味する物語。作者によれば「みんなを幸福にするためにはどうすればいいか」という問いを抱えて、世界の四方に出かけて、何かを予感して封印する輪廻転生の物語。高校時代に初めて読んだこの4冊は私にとって憧れの世界だった。友人たちとの会話、主人公の語り口、軽やかでオシャレでちょっとキザなレトリック。柔らかでしなやかな知性に溢れ、それでいて若さのまっただ中でもがく、ナイーブな高校生。男の子、いかに生きるべきかなどと呟きながら。本棚の隅に妻の追求から逃れるように『赤頭巾ちゃん〜』たちが収まっている。その奥付によると初版は昭和44年8月10日、私の持っているのが昭和48年11月10日の、なんと47版!そう、当時の表現で言えば、猛烈に(笑)売れていた小説なのだ。
そして、2012年。4部作が改めて文庫化される。3月から毎月1冊づつ、「新潮文庫」から出版されるという。福田彰二という本名で受賞した『喪失』が中央公論新人賞を受賞したことから、今までは文庫も含めた全ての庄司薫の著作のほとんどは中央公論社が版元だった。どんな経緯があったかは知らないけれど、3月に出たばかりの『赤頭巾ちゃん気をつけて』新潮文庫版を手に取った。巻末には「あわや半世紀のあとがき」というわずか2Pだけの文章。どうやら庄司薫本人が書いた(当然だけれど)ようだ。そのあとがきを読むために迷わず購入。何しろ、4つの物語を書き終えた後、本人が言うところの「総退却」してしまった作者はほとんど表舞台に出てこない。新たな文章にお目にかかれない。ちなみに、奥さまでピアニストの中村紘子さんの収入で暮している訳ではなく、不動産等の資産運用で悠々自適の、まさしく憧れの生活をなさっているようだ。
そして再読。舞台は1969年の東京。春。主人公の薫は、学校群制度が導入される直前の、東大に毎年200名近く入学していた日比谷高校の3年生。東大入試が中止となり、大学に行くことを止めることを幼なじみの由美ちゃんに伝えようとした朝から、ふんだりけったりの展開の後、銀座の旭屋書店の前でカナリア色のコートを着た小さな女の子に爪を剥がしたての足を思いっきり踏まれ、そして彼女が買おうと慌てていた『赤ずきんちゃん』を一緒に選んであげる。そして、それまでの自分の抱えたトゲトゲを全て許せる気持になって、その日の夜に由美ちゃんと仲直り、というそれだけの、たった半日の物語。けれど、半世紀近く経った今でも、その文章は変わらず瑞々しく、物語は古びることなく、若くはなくなった私に柔らかく響いて来る。書出しの文章をほぼ覚えていることに驚く。それどころか、読み返して、当時は理解できなかった小さなエピソードに気付く。物語の輪郭や陰影がはっきりとする。当時は未知の街だった舞台、東京を辿ることができる。新たな楽しみ方を発見する。40年以上前に読んだ時と変わったのは自分だけなんだと気付く。
「そうまで言うなら、読んでみるかぁ」と、庄司薫作品は未読の妻。未読の方にもおススメしたい。まして村上春樹がお好きなら。なぜなら、村上春樹が80年代に新たな日本の小説の地平を拓いたように、70年代は庄司薫だったんだ。…と庄司薫風におススメしてみようと思った訳だ。再読の方も、ぜひ。