継続するためには…「SQUASH JAPAN OPEN 2025」

JapanOpen01日「SQUASH JAPAN OPEN -2025-」というスカッシュの国際大会が開催された。「JAPAN OPEN」と冠する大会として2002年の第27回以来、何と23年ぶりの復活だ。*第27回大会の参加選手には、今大会の実行委員長でもある渡邊祥広、佐野公彦、青山猛、松本淳など、当時の有力選手の名前が連なる。優勝はマレーシアのKenneth Low、女子は開催されなかった。スカッシュは2028年のLAオリンピックで初めて正式競技として採用され、来年名古屋で開催されるアジア大会の競技種目でもある。日本の有力選手も海外の国際大会に本格参戦し始め、女子TOPの渡邊聡美は現在世界ランキング8位(最高6位)、男子TOPの机龍之介は53位(最高47位)という戦績を残している。世界ランキングでTOP8に入るのは快挙と言える。それでも日本でのスカッシュを取り巻く環境は厳しい。

JapanOpen022002年当時、大きな大会が開催された「ルネサンス幕張(コート数4面?、2011年?に閉鎖)」や「コータコート(コート数9面、2006年に閉鎖)」などは既になく、国際大会を開催するインフラは整っているとは言えない。例えば、2025年10月に開催されたUSオープンの会場は22面のコートを有する。*フィラデルフィアにあるその施設は常設の観客席付き全面グラスコートが2面、ダブルスコートが2面もある。今回のJAPAN OPENは1回戦、2回戦は「Greetings Squash Yokohama(と言っても最寄りは北新横浜駅)」にある4面のコートで開催され、準々決勝、準決勝、決勝は西新宿の「新宿住友ビル三角広場」に設営された4面グラスコートで行われた。いずれの会場も観客席数は多いとは言えず、ましてや公式発表されてはいないが、有料入場者数は限定的だ。

JapanOpen03ベントそのものは素晴らしかった。コンセプトを「スカッシュ×音楽×日本酒の祭典」と銘打って、音楽などのパフォーマンス、トークショーなどと組合せた複合イベントとして、スカッシュの認知を高める試みを行った。「スカッシュ」と「日本酒」をかけ、「スカッ酒 JAPAN OPEN」として全国32ヶ所の蔵元から日本酒の銘酒を集め、屋台で飲み比べができる食のイベントでもあった。酒を片手にスカッシュ観戦を楽しむことができた上に、立見席では無料で観戦できた。会場の造りも“映える”デザインで、三角広場の吹き抜けの巨大な空間の中に4面グラスコートが美しく浮かび上がる。フロントウォール裏の大きなモニターには、イベントの告知、複数のカメラで撮影した試合の中継を放映し、臨場感溢れる雰囲気になった。

JapanOpen04ンジョイ・プレーヤーながら、30年ほどスカッシュを続けてきたお気楽夫婦。毎週(セミリタイア後は数回の)スカッシュのレッスンに励み、海外のリゾートに滞在する際にはスカッシュラケットを抱えて出かけ、国内のハイアット修行の際には最寄りのコートでプレーしてきた。スカッシュのおかげでスカッシュを通じた友人・仲間の輪も広がり、国内外のTOPプレーヤーとの接点も増えた。日本のTOP2人にささやかなサポートを数年間継続しており、今回の大会にも個人として若干のスポンサードを行った。*急遽シャレで作成したロゴが掲載され、ちょっとテレたけれど。それもこれも、2人が愛するスカッシュというスポーツを何とか日本においても元気にしたい、日本の選手たちに強くなって海外で活躍して欲しいという思いから。

JapanOpen05会は15K(男女の優勝賞金総額が15,000US$=225万円)というチャレンジャーという下位カテゴリーの大会の中では高額賞金の大会で、世界ランキング50〜120位クラスの選手が世界各国から日本にやって来た。男子優勝はイングランドの世界ランキング67位のSamuel Osborne Wilde、女子優勝はインドの世界ランキング93位(最高9位)のJoshna Chinappaという39歳の超ベテラン選手。*優勝したチナッパのプレーが凄かった。軽やかで絶妙なタッチで強打の若手プレーヤーをいなし、いつの間にかラリーを制していた。日本選手は残念ながら日本男子TOPの机龍之介、女子の杉本梨沙が準々決勝まで勝ち進むに止まった。とは言え、日本で、新宿で、目の前で、世界トップレベルのプレーを観戦できたことは多くの国内プレーヤーにとって貴重な機会になったのではないか。

JapanOpen08時に会場はスカッシュプレーヤーの同窓会のような雰囲気でもあった。かつて一緒にプレーしていた仲間同士や、久しぶりに会う先輩、後輩があちこちで挨拶を交わし、酒を酌み交わしていた。それはそれで微笑ましいし、楽しい場ではあった。どのスポーツでも同様ではあるが、最大の観客はプレーヤーだ。けれど、そこまでで止まっていてはイベントとして成立しない。ましてや日本におけるスカッシュの競技人口だけではマーケットが小さ過ぎる。スカッシュ観戦に魅力を感じ、観て楽しいスポーツにならないとJAPAN OPENクラスの大会は継続できない。スポンサーを募り、クラウドファウンディングで運営費用を補ったけれど、今大会の収支は間違いなく厳しいであろう。では、大会を継続するためには何をしたら良いのか。何ができるのか。

スカッシュというスポーツに魅せる要素は多いし、多くの人に観てもらい人気のスポーツになる可能性はある。今大会もいろいろな工夫をして、イベント等で動員を図り、スカッシュを観たことがない客層を取り込もうと努力していた。けれど、登らなければいけない山はまだまだ高く険しい。同じラケットスポーツで人気のテニス、卓球、バドミントンと人気や動員などで先行する競技も決して順風満帆だったわけではなく、むしろ苦しんだ時代が長かったし、今も苦しんでいるのだと思う。スポーツや芸術は公共や民間、個人を問わず、何らかの形でサポートが必要だし、答えはひとつではない。2026年の名古屋アジア大会、2028年LAオリンピックに向けて、ひとりのエンジョイ・プレーヤーとして、何かできることがあればと目論む意気盛んなお気楽夫婦だった。「アジア大会もスカッシュの全日程観に行くよ!」と妻。はい、まずはそれくらいから始めよう。

幸福な親娘と共に「義父母都民化計画」

TOKYO01TOKYO026月、お気楽夫婦はイングランドに滞在していた…はずだった。旅の目的は日本スカッシュ界の至宝、渡邊聡美ちゃんが出場する「ブリティッシュOPEN」の観戦。彼女を応援をするためにロンドン、バーミンガムに滞在する予定で、観戦チケットはもちろん、航空券もホテルも手配済みだった。さらに裏テーマは、3月に役員を退任した私の“卒業旅行”として、“ビートルズの旅”だった。リバプールの「ストロベリー・フィールド」、ロンドンの「EMI本社」、「アビィ・ロード」など、リリー・フランキーの『ビートルズへの旅』を片手に巡る予定だった。ところが、出発の1ヶ月ほど前に、妻に1本の電話が掛かってきた。「こちら浜松の救急隊です」…義父が肺炎で倒れ、救急車で運ばれたという。「2時間で伺います」と新幹線に飛び乗った妻は、2週間以上帰って来られなかった。結局、旅は中止。妻は毎週のように浜松に通うことになった。

TOKYO04TOKYO03いにして、義父は肺炎の症状も軽く入院することもなく、半月ほどで熱も下がった。とは言え、腰椎を骨折して家事は自力ではほとんどできない義母の世話をするのは義父しかいない。妻のサポートも限界がある。困った。そんな時、ひとり留守宅にいた私の手元に1枚の新聞折込チラシが届いた。サービス付き高齢者向け住宅、いわゆる“サ高住”と呼ばれる施設だった。内容を見るとかなりの充実ぶり。24時間見守りサービスや、施設内に付随する介護施設との提携、広大な敷地内にある病院との連携、3食の食事は施設内のレストランで作りたてをいただけるし、ジムや大浴場まで整っている。何よりお気楽夫婦の自宅から徒歩圏内。素晴らしい。こんなところに住んでもらえればと帰宅した妻と相談。ダメ元で声を掛けてみるかと話したところ、意外にも検討の余地ありとの反応。では早速と義父母に代わって現地を見学してみた。

TOKYO06TOKYO05ねてみてびっくり。新聞折込チラシは元より、事前に入手したパンフレットより、実際の施設が素晴らしいのだった。広大な施設は元は大手保険会社の福利厚生施設(グランドなど)で、お気楽夫婦の住む地域の広域避難場所に指定されている場所。そこが複合的に再開発され、9ha(東京ドーム2個分)の広大な緑の中に、ファミリー向け分譲マンション、クリニックモール、公園、テニスコート、グランドなどが配されているのだ。建物に入ってすぐに、暖炉やソファ、グランドピアノまである吹き抜けの開放的なロビー、コンシェルジェデスク、正面には噴水まで付いた緑豊かな中庭が広がる。下手な高級ホテルより豪華。ゆったりとした食堂、カフェ、定期的に営業する美容室、シアタールーム、ジムにはなんと常勤のスタッフまでいて、多彩な居住者向けメニューが用意されている。自分たちが住みたい!と叫びそうになる。

TOKYO07TOKYO08室もこのような施設としては充分な広さと間取りが用意され、ベランダも広々として明るい。そして驚いたことに、モデルルームとして案内された部屋のベランダから、お気楽夫婦の住むマンションが見えたのだ!営業担当者にそう伝えると、「それは素晴らしい。きっと運命ですね」と、営業トークとしては陳腐だけれど、まさしくその通り。すぐに義父母向けのプレゼンテーション資料をパワポで作成。これまで何千枚も企画書、提案書を作ってきたのはこのためだったのか!という我ながら素晴らしい出来。パソコンをTVに繋いで提案すると、「良いねぇ」「住んじゃう?」と期待以上の反応。連れ出すのは不可能かと思われた義母も下見に行くと言う。何度目かのびっくり。

TOKYO09TOKYO10幹線のグリーン車で送り迎え、都内に入ってしまうと「都会は混んでて嫌!」と言われてしまう恐れがあったので新横浜で下車しタクシーに乗せて前泊地のホテルへ。翌日はタクシーで現地へ、下見した後はタクシーで新横浜経由で帰宅。そこからとんとん拍子に話が進み、契約することに。最大のびっくり。2人とも90年近く生まれた地から離れて住んだことがないのに、終の住まいとして東京を選んだ。お試し期間を作り、戻っても良いように自宅の処分は先にとも思っていたのに、すぐ売却しようという決断。ますます凄い。妻がキラーコンテンツであることは明白ではあった。私からの提案もそれが肝だった。結果、ひとり娘の傍に住めるという幸福を選んだ2人。両親に選んでもらえた妻の幸福。なんて幸福な親娘であることか。羨ましいほどだ。

TOKYO11TOKYO12し、妻のハードワークはそれからが本番だった。転居に関わる諸手続きの煩雑さ。住民票、電気、水道、TVなどの手続きはもちろん、複数の金融機関に資金移動や解約の手配をし、さらに複数の病院に紹介状を書いてもらい、引越し、廃棄物処理などの業者手配など、毎週のように帰省しても追いつかないほどの作業量。その合間を縫ってお気楽夫婦本来の(笑)仕事であるハイアットの修行も行わなければいけない。この春から秋にかけての妻のスケジュールは、もはや“お気楽”では決してなく、会社を退職し、非常勤のアドバイザリー契約に変わっていなければ不可能だった。その点、測ったように(決して良いことではないが)良いタイミングで義母が怪我をし、義父が倒れたものだ。

TOKYO13TOKYO14越し本番。前々日から泊まり込み、最後で最大の作業。最後の夜には従弟も挨拶に来てくれた。しかし、家具を運び出し、さっぱりとしたそれまでの住まいへのお別れもあっさりしたもので、お気楽夫婦の方が却ってしんみり。新幹線での送り迎えも以前の通り、横浜で前泊し、タクシーで新居へ。それまでに家具を買い替えたり、カーテン、家電製品など、身の回りのかなりのモノを処分してもらい、義父母の新居を整えた。「あら、良い感じだわね。ありがとね」と感想もあっさり。義父母の感情の波が穏やかなのは妻と同様。引越し後の後片付けもフルパワーの妻は笑顔で答える。子供が親の住まいを整えようとする際に、こんなに完璧を目指すのかという徹底ぶり。その愛情に感動すら覚える。逆に私ができることは限られるけれど、些かの役には立ったか。

「今日はサッカーの大会らしい。ただいま観戦中」サポートに行っている妻からLINEで報告。送られてきた写真はベランダで子供たちのプレーを見守る義母の後ろ姿。人工芝の緑と周囲の木々が心地良さそうだ。10月1日の「都民の日」を前に、この9月で義父母は東京都民となった。義父が倒れて4ヶ月余り、あっという間にご近所住まいになった。まだ部分的に現実感はないけれど、明日にはまた新しい家具が届き、夏物の整理もしなければと、現実の課題は毎日のように否応なくやって来る。「でも、これからは安心して旅行に行けるしね」と妻。やはりお気楽な(ちょっと照れ隠しの)妻だった。これにて「義父母都民化計画」第1弾の終了。

…か?

北へぐるっと“乗り鉄”の旅「墓参ツアー2025夏」

Tohoku02Tohoku012025年夏、墓参の旅に出た。故人を忍ぶのが第一義ではあるが、その墓を守る弟たちや従妹を訪ねる旅でもある。まずは新潟へ。前年に亡くなった伯母の墓前を訪ね、従妹と新潟の街を巡り、酒席を共にすることが旅の最初のミッション。上越新幹線で2時間。まずは新潟名物「タレカツ丼」の名店、「とんかつ政ちゃん」へ。甘辛のタレに浸した薄切りのヒレカツが丼ご飯の上に乗っている。これがサクサクと香ばしく何とも美味しい。1枚単位でオーダーできるのも素晴らしい。期待以上の味。濃いめのソースを付けてキャベツの千切りを敷いた長野や福井のソースカツ丼とはまた違う旨さ。墓参りの後には「2002サッカーW杯」の会場となった「ビッグスワン」を見学。白鳥が飛来する鳥屋野潟に面し、その愛称の通り水面と青空に映える美しいスタジアムだ。

Tohoku03Tohoku04のミッションは父母の墓参。羽越本線沿いに、日本海を眺めつつ(迎えに来てくれた次弟の車で)山形県へ。途中、鮭の街として有名な村上市に立ち寄り、鮭づくしのランチをいただく。平安時代から朝廷に献上されていたという村上市を流れる三面川の鮭。江戸時代には村上藩の重要な財源となり、世界で初めて自然保護増殖を行なったという。昔から“塩引鮭”という独特の保存方法があり、村上に近い我が故郷でも年末になると各家々が軒先に鮭を吊るしていた。鮭の頭を使った「氷頭なます」や鮭の身を日本酒に漬けて熟成させた「酒浸し」など、あらゆる部位を大切にいただく食文化は今も残っている。そしてどれももちろん旨い。そんな村上の鮭文化を伝える博物館「いよぼや会館*」で鮭の生態を知る。*「いよ」も、「ぼや」も魚の意味。村上近辺でいよぼやと呼ばれる鮭は「魚の中の魚」という意味。そう言えば子供の頃、確かに鮭のことをそう呼んでいた。

Tohoku05Tohoku06郷で亡き父母の墓参りを済ませた後には、懐かしい顔が大勢で待っていた。地元の同級生(小中学校)たちが10人以上集まり、ミニ同級会を開いてくれた。間もなく古希(70歳)を迎えようというメンバー。昨秋、中学時代に生徒会長をやった同級生(ずば抜けて勉強もスポーツもできた彼はずっと元気でいると思っていた)が亡くなった。改めて命の限りあることを実感した。そこで、元気な内に集まろう!古希を祝う同級会をやろう!と呼びかけるために懐かしい写真を編集し、お得意のムービーを作成してきていた。それを皆んなに見てもらおうというのが私の目論見だった。「あぁ〜、そうだった」「あれは誰だ?」「ほら、お前がいるぞ!」「おぉ〜懐かしい!」と映像が流れ始めるとすぐに大盛り上がり。ムービーが終わっても「もう一度最初から!」とリクエストが入る。大成功。こんな調子で本番を迎えたい。その日は「あつみ温泉」の「萬国屋」という人気旅館(実は姪が勤務しており、還暦の同級会の会場でもあった)に宿泊。

Tohoku07Tohoku08弟の還暦を祝うのも大切なミッション。故郷鶴岡から北上した後に東へ、そして南へ。陸羽西線、奥羽本線と最上川に沿って弟の嫁ぎ先(彼はひとり娘の婿養子になった)「かみのやま温泉」までドライブ。祝いの席の会場は「古窯」という老舗旅館。前日宿泊した「萬国屋」と同系列の宿であり、末弟が披露宴を行なった記念すべき場所でもある。お祝いに集まったのは、次弟の家族など総勢9名。父母が亡くなって以降、なかなか一族全員で顔を合わせる機会も少なくなり、皆んなで集まる“理由付け”をする必要があった。そこで思いついたのが末弟の還暦祝い。そしてその前後に墓参などのスケジュールを入れたというのが今回の旅の経緯。宴席の後はのんびりと温泉に浸かり、翌日の朝食で地元の美味しい料理を堪能。温泉旅の風情を楽しんだ。

Tohoku09Tohoku10後のミッションは山形駅から仙山線に乗って仙台の(娘のような若い)友人を訪ねること。彼女とはあるきっかけで仙台で知り合い、東京で何度か一緒に食事をし、中目黒の仮住まいや自宅、パークハイアットのパーティにも来てもらった。知り合ったきっかけになったスカッシュ仲間Nくん抜きでも(笑)、お互いに会いたいと思う大切な友人になった。ランチに仙台ではお約束の牛タンを「利久のイタリアンCUCINA」という変化球でいただき、仙台の街をぶらぶらした後、夕刻に仕事帰りの友人と待合せ。「飲み喰い処 玄孫(やしゃご)」という地元で人気の居酒屋。私の故郷鶴岡にあった築60年の商家の蔵を移築したという趣ある佇まい。人気の牛すじ豆腐、地の魚の刺身の盛合せなど、シンプルで食材の力が強い料理が旨い。地元の酒も旨い。またNくん抜きでも良いから(笑)飲もうね♬と別れた楽しい時間だった。Nくん、次回はご一緒に♡

Tohoku11Tohoku12終日、上越新幹線、羽越本線(乗ってないけど)、陸羽西線(同左)、奥羽本線(同左)、仙山線と乗り継いで来た(乗ってないのに)旅を締めくくるのは、東北新幹線ではなく、あえて常磐線。新幹線なら90分で東京に到着するところを、特急で5時間を掛けて、それも途中下車までして帰ろうという“乗り鉄”らしいコース。その途中下車に選んだのは、日立駅。こんな機会でもなければ乗らない路線、降りることもない駅。世界で最も美しい駅のひとつとして知られ、駅舎から太平洋に向かって伸びるガラス張りで光に溢れた展望スペースが確かに美しい。海と空を手づかみできそうな距離感。清々しい空間だ。その先端にある「シーバーズカフェ」でランチをいただき、すっかりミーハーな(死語?)観光客気分。実際そうだしね。これにて東京へ戻りミッション完了。

こうして“旅人”たるお気楽夫婦の夏の締めくくりは、北への旅だった。滞在型のハイアット修行は(修行したくてもハイアットホテルがない)しばしお休みして、新鮮な移動旅。これもまた楽し。「なかなかハードな旅程だったね」と、さすがのお気楽妻もややお疲れ気味。かと思えば、「次はどこだっけ?京都と奈良か。それも楽しみだね♬」と新たな旅を思う妻。そして私。…つくづくタフな2人だ。

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