さらば浜松(涙)「センチメンタル・ジャーニー(1日目)」

hamamatsu01hamamatsu02hamamatsu03父母が東京都民になって2ヶ月が経った。何の躊躇もなく東京移住を決断し、後ろ髪を引かれることもなく、80年以上住んだ“浜松”を後にした義父母に代わり、浜松を訪ねたお気楽夫婦。2泊3日の感傷旅行(妻の故郷を失ったセンチメンタル・ジャーニー)だ。まずは「浜松餃子」の名店「むつ菊」を訪ねた。浜松餃子の特徴は、野菜たっぷりのタネと店独自のタレ。カリッと円形に焼いた餃子の中央にもやしを乗せる。薄い皮がパリパリとして香ばしく、中はふわっと優しい歯応え。ビールにぴったり。あっさりとしていて少食の2人でもかなりの数を食べられる。いつの間にか全国的に有名になり、地元以外の人も知るようになったB級グルメに満足。*ふふふ、けれどもタクアンのみじん切りが入ったお好み焼き「遠州焼き」を知る人はいないだろう。←美味しいけど有名にはならないと思う。さらに、行きつけだったパン屋「ブランジェリー・スギヤマ」で、翌日のランチ用にパンをゲット。小さい店ながらオシャレで品数もそこそこ揃っていて、どれも美味しかった。この店にも来ることはないだろうなぁ(涙)。後ろ髪をひかれながら店を出る。

hamamatsu04hamamatsu05hamamatsu06松を訪ねたメインの目的のひとつは、売却済み(引渡し前)の旧宅を訪ね、ポスト(郵便物)や室内のチェックを行うこと。チラシ、DMの類は入っていたけれど、個人的な郵便物は特になくひと安心。転居のご挨拶を送ったり、各所に転居の届出を出した効果を確認できた。盛夏には五月蝿いほどの蝉の声が降り注いだマンションの中庭は、今はひっそり。竣工から20年経ち、すっかり大きくなった庭木も堂々たるもの。部屋に入ると、家具などが一切ないためスッキリと広々としていて、義父母たちが住んでいた場所とは違う空間にいるような奇妙な感覚に襲われる。*20年前に引っ越した頃は、義父は今の私とほぼ同年代。皆んな若かった。内見のためにやってもらった不動産会社の掃除も行き届き、まるで新築同様。20年住んだとは思えませんね、という不動産会社の営業マンのトークもまんざらお世辞だけではない。人気の物件ということもあるけれど、早々に売れた理由も分かる。

hamamatsu07hamamatsu08hamamatsu0925年以上(年に数回=通算50〜60回)浜松に通ったのに、訪れていない観光名所を訪ねようというのも訪問のテーマ。そこで選んだのが「浜松科学館みらい〜ら」という浜松駅近くのオモシロ施設。“い〜ら”というのは遠州弁で“良いでしょう?”という意味で、未来と掛けて“みらい〜ら”というネーミングがステキ(笑)。エントランスを入るとすぐに『エヴァンゲリオン』の渚カヲルがお出迎え。浜松市が推進する地域連携プロジェクト「シン・ハママツ計画」の一環として立ちっぱなしのカヲルくん。ご苦労さまです。そして最上階にはプラネタリウム。浜松の夜空をライブ(スタッフが生声で)で案内されながら心地良い眠りにつくお気楽妻。寝不足だね。他にも地元企業(SUZUKI)とタイアップしたバイクのシミュレータが楽しめたり、参加型の科学クイズのコーナーがあったり、時間が足りない!ほどの楽しさ。また来たい!と愚図る子供になりそうな施設だ。

hamamatsu10hamamatsu11hamamatsu12松滞在初日の掉尾を飾るのは、老舗の名店「割烹弁いち」だ。2008年に初訪問以来、毎年数回訪れてきたお気楽夫婦にとって大切な店。17年間に通算で(おそらく)30回以上通い、年始にはこの店のお節料理をいただくのが楽しみだった。その日は地元に住む妻の従弟と同行。祖父の代から続く歯科医院を継ぎ、先祖代々の墓を守ってくれている一族の支柱的存在だ。ほぼ下戸揃いの親戚中で、数少ない“飲める”相手でもある。いつものカウンタ席に3人で並び、食材の良さを最大限に活かした繊細で端正な料理をいただく。いつもの通りに旨い。そして大将の鈴木さんが選ぶ日本酒とのペアリングを堪能する。料理と酒の絶妙なるマリアージュ、それこそがこの店の醍醐味。さらには大将が語る酒の由来を伺いながら嗜む酒の旨さよ。この店に来ることも“マスオさん”たる私にとって、浜松訪問のモチベーションだったなぁとしみじみ。

「楽しく、美味しく、嬉しい時間でした。今は幸せな酔っ払いです」店から30分以上歩いて帰った従弟からメッセージが入った。「もしかしてお酒、強いんじゃない?」と妻が感想を零す。彼が浜松にいる限り、妻の“故郷”は無くならない。またいつか、「弁いち」さんのカウンタで、共に幸福な酔っ払いになろう。

継続するためには…「SQUASH JAPAN OPEN 2025」

JapanOpen01日「SQUASH JAPAN OPEN -2025-」というスカッシュの国際大会が開催された。「JAPAN OPEN」と冠する大会として2002年の第27回以来、何と23年ぶりの復活だ。*第27回大会の参加選手には、今大会の実行委員長でもある渡邊祥広、佐野公彦、青山猛、松本淳など、当時の有力選手の名前が連なる。優勝はマレーシアのKenneth Low、女子は開催されなかった。スカッシュは2028年のLAオリンピックで初めて正式競技として採用され、来年名古屋で開催されるアジア大会の競技種目でもある。日本の有力選手も海外の国際大会に本格参戦し始め、女子TOPの渡邊聡美は現在世界ランキング8位(最高6位)、男子TOPの机龍之介は53位(最高47位)という戦績を残している。世界ランキングでTOP8に入るのは快挙と言える。それでも日本でのスカッシュを取り巻く環境は厳しい。

JapanOpen022002年当時、大きな大会が開催された「ルネサンス幕張(コート数4面?、2011年?に閉鎖)」や「コータコート(コート数9面、2006年に閉鎖)」などは既になく、国際大会を開催するインフラは整っているとは言えない。例えば、2025年10月に開催されたUSオープンの会場は22面のコートを有する。*フィラデルフィアにあるその施設は常設の観客席付き全面グラスコートが2面、ダブルスコートが2面もある。今回のJAPAN OPENは1回戦、2回戦は「Greetings Squash Yokohama(と言っても最寄りは北新横浜駅)」にある4面のコートで開催され、準々決勝、準決勝、決勝は西新宿の「新宿住友ビル三角広場」に設営された4面グラスコートで行われた。いずれの会場も観客席数は多いとは言えず、ましてや公式発表されてはいないが、有料入場者数は限定的だ。

JapanOpen03ベントそのものは素晴らしかった。コンセプトを「スカッシュ×音楽×日本酒の祭典」と銘打って、音楽などのパフォーマンス、トークショーなどと組合せた複合イベントとして、スカッシュの認知を高める試みを行った。「スカッシュ」と「日本酒」をかけ、「スカッ酒 JAPAN OPEN」として全国32ヶ所の蔵元から日本酒の銘酒を集め、屋台で飲み比べができる食のイベントでもあった。酒を片手にスカッシュ観戦を楽しむことができた上に、立見席では無料で観戦できた。会場の造りも“映える”デザインで、三角広場の吹き抜けの巨大な空間の中に4面グラスコートが美しく浮かび上がる。フロントウォール裏の大きなモニターには、イベントの告知、複数のカメラで撮影した試合の中継を放映し、臨場感溢れる雰囲気になった。

JapanOpen04ンジョイ・プレーヤーながら、30年ほどスカッシュを続けてきたお気楽夫婦。毎週(セミリタイア後は数回の)スカッシュのレッスンに励み、海外のリゾートに滞在する際にはスカッシュラケットを抱えて出かけ、国内のハイアット修行の際には最寄りのコートでプレーしてきた。スカッシュのおかげでスカッシュを通じた友人・仲間の輪も広がり、国内外のTOPプレーヤーとの接点も増えた。日本のTOP2人にささやかなサポートを数年間継続しており、今回の大会にも個人として若干のスポンサードを行った。*急遽シャレで作成したロゴが掲載され、ちょっとテレたけれど。それもこれも、2人が愛するスカッシュというスポーツを何とか日本においても元気にしたい、日本の選手たちに強くなって海外で活躍して欲しいという思いから。

JapanOpen05会は15K(男女の優勝賞金総額が15,000US$=225万円)というチャレンジャーという下位カテゴリーの大会の中では高額賞金の大会で、世界ランキング50〜120位クラスの選手が世界各国から日本にやって来た。男子優勝はイングランドの世界ランキング67位のSamuel Osborne Wilde、女子優勝はインドの世界ランキング93位(最高9位)のJoshna Chinappaという39歳の超ベテラン選手。*優勝したチナッパのプレーが凄かった。軽やかで絶妙なタッチで強打の若手プレーヤーをいなし、いつの間にかラリーを制していた。日本選手は残念ながら日本男子TOPの机龍之介、女子の杉本梨沙が準々決勝まで勝ち進むに止まった。とは言え、日本で、新宿で、目の前で、世界トップレベルのプレーを観戦できたことは多くの国内プレーヤーにとって貴重な機会になったのではないか。

JapanOpen08時に会場はスカッシュプレーヤーの同窓会のような雰囲気でもあった。かつて一緒にプレーしていた仲間同士や、久しぶりに会う先輩、後輩があちこちで挨拶を交わし、酒を酌み交わしていた。それはそれで微笑ましいし、楽しい場ではあった。どのスポーツでも同様ではあるが、最大の観客はプレーヤーだ。けれど、そこまでで止まっていてはイベントとして成立しない。ましてや日本におけるスカッシュの競技人口だけではマーケットが小さ過ぎる。スカッシュ観戦に魅力を感じ、観て楽しいスポーツにならないとJAPAN OPENクラスの大会は継続できない。スポンサーを募り、クラウドファウンディングで運営費用を補ったけれど、今大会の収支は間違いなく厳しいであろう。では、大会を継続するためには何をしたら良いのか。何ができるのか。

スカッシュというスポーツに魅せる要素は多いし、多くの人に観てもらい人気のスポーツになる可能性はある。今大会もいろいろな工夫をして、イベント等で動員を図り、スカッシュを観たことがない客層を取り込もうと努力していた。けれど、登らなければいけない山はまだまだ高く険しい。同じラケットスポーツで人気のテニス、卓球、バドミントンと人気や動員などで先行する競技も決して順風満帆だったわけではなく、むしろ苦しんだ時代が長かったし、今も苦しんでいるのだと思う。スポーツや芸術は公共や民間、個人を問わず、何らかの形でサポートが必要だし、答えはひとつではない。2026年の名古屋アジア大会、2028年LAオリンピックに向けて、ひとりのエンジョイ・プレーヤーとして、何かできることがあればと目論む意気盛んなお気楽夫婦だった。「アジア大会もスカッシュの全日程観に行くよ!」と妻。はい、まずはそれくらいから始めよう。

幸福な親娘と共に「義父母都民化計画」

TOKYO01TOKYO026月、お気楽夫婦はイングランドに滞在していた…はずだった。旅の目的は日本スカッシュ界の至宝、渡邊聡美ちゃんが出場する「ブリティッシュOPEN」の観戦。彼女を応援をするためにロンドン、バーミンガムに滞在する予定で、観戦チケットはもちろん、航空券もホテルも手配済みだった。さらに裏テーマは、3月に役員を退任した私の“卒業旅行”として、“ビートルズの旅”だった。リバプールの「ストロベリー・フィールド」、ロンドンの「EMI本社」、「アビィ・ロード」など、リリー・フランキーの『ビートルズへの旅』を片手に巡る予定だった。ところが、出発の1ヶ月ほど前に、妻に1本の電話が掛かってきた。「こちら浜松の救急隊です」…義父が肺炎で倒れ、救急車で運ばれたという。「2時間で伺います」と新幹線に飛び乗った妻は、2週間以上帰って来られなかった。結局、旅は中止。妻は毎週のように浜松に通うことになった。

TOKYO04TOKYO03いにして、義父は肺炎の症状も軽く入院することもなく、半月ほどで熱も下がった。とは言え、腰椎を骨折して家事は自力ではほとんどできない義母の世話をするのは義父しかいない。妻のサポートも限界がある。困った。そんな時、ひとり留守宅にいた私の手元に1枚の新聞折込チラシが届いた。サービス付き高齢者向け住宅、いわゆる“サ高住”と呼ばれる施設だった。内容を見るとかなりの充実ぶり。24時間見守りサービスや、施設内に付随する介護施設との提携、広大な敷地内にある病院との連携、3食の食事は施設内のレストランで作りたてをいただけるし、ジムや大浴場まで整っている。何よりお気楽夫婦の自宅から徒歩圏内。素晴らしい。こんなところに住んでもらえればと帰宅した妻と相談。ダメ元で声を掛けてみるかと話したところ、意外にも検討の余地ありとの反応。では早速と義父母に代わって現地を見学してみた。

TOKYO06TOKYO05ねてみてびっくり。新聞折込チラシは元より、事前に入手したパンフレットより、実際の施設が素晴らしいのだった。広大な施設は元は大手保険会社の福利厚生施設(グランドなど)で、お気楽夫婦の住む地域の広域避難場所に指定されている場所。そこが複合的に再開発され、9ha(東京ドーム2個分)の広大な緑の中に、ファミリー向け分譲マンション、クリニックモール、公園、テニスコート、グランドなどが配されているのだ。建物に入ってすぐに、暖炉やソファ、グランドピアノまである吹き抜けの開放的なロビー、コンシェルジェデスク、正面には噴水まで付いた緑豊かな中庭が広がる。下手な高級ホテルより豪華。ゆったりとした食堂、カフェ、定期的に営業する美容室、シアタールーム、ジムにはなんと常勤のスタッフまでいて、多彩な居住者向けメニューが用意されている。自分たちが住みたい!と叫びそうになる。

TOKYO07TOKYO08室もこのような施設としては充分な広さと間取りが用意され、ベランダも広々として明るい。そして驚いたことに、モデルルームとして案内された部屋のベランダから、お気楽夫婦の住むマンションが見えたのだ!営業担当者にそう伝えると、「それは素晴らしい。きっと運命ですね」と、営業トークとしては陳腐だけれど、まさしくその通り。すぐに義父母向けのプレゼンテーション資料をパワポで作成。これまで何千枚も企画書、提案書を作ってきたのはこのためだったのか!という我ながら素晴らしい出来。パソコンをTVに繋いで提案すると、「良いねぇ」「住んじゃう?」と期待以上の反応。連れ出すのは不可能かと思われた義母も下見に行くと言う。何度目かのびっくり。

TOKYO09TOKYO10幹線のグリーン車で送り迎え、都内に入ってしまうと「都会は混んでて嫌!」と言われてしまう恐れがあったので新横浜で下車しタクシーに乗せて前泊地のホテルへ。翌日はタクシーで現地へ、下見した後はタクシーで新横浜経由で帰宅。そこからとんとん拍子に話が進み、契約することに。最大のびっくり。2人とも90年近く生まれた地から離れて住んだことがないのに、終の住まいとして東京を選んだ。お試し期間を作り、戻っても良いように自宅の処分は先にとも思っていたのに、すぐ売却しようという決断。ますます凄い。妻がキラーコンテンツであることは明白ではあった。私からの提案もそれが肝だった。結果、ひとり娘の傍に住めるという幸福を選んだ2人。両親に選んでもらえた妻の幸福。なんて幸福な親娘であることか。羨ましいほどだ。

TOKYO11TOKYO12し、妻のハードワークはそれからが本番だった。転居に関わる諸手続きの煩雑さ。住民票、電気、水道、TVなどの手続きはもちろん、複数の金融機関に資金移動や解約の手配をし、さらに複数の病院に紹介状を書いてもらい、引越し、廃棄物処理などの業者手配など、毎週のように帰省しても追いつかないほどの作業量。その合間を縫ってお気楽夫婦本来の(笑)仕事であるハイアットの修行も行わなければいけない。この春から秋にかけての妻のスケジュールは、もはや“お気楽”では決してなく、会社を退職し、非常勤のアドバイザリー契約に変わっていなければ不可能だった。その点、測ったように(決して良いことではないが)良いタイミングで義母が怪我をし、義父が倒れたものだ。

TOKYO13TOKYO14越し本番。前々日から泊まり込み、最後で最大の作業。最後の夜には従弟も挨拶に来てくれた。しかし、家具を運び出し、さっぱりとしたそれまでの住まいへのお別れもあっさりしたもので、お気楽夫婦の方が却ってしんみり。新幹線での送り迎えも以前の通り、横浜で前泊し、タクシーで新居へ。それまでに家具を買い替えたり、カーテン、家電製品など、身の回りのかなりのモノを処分してもらい、義父母の新居を整えた。「あら、良い感じだわね。ありがとね」と感想もあっさり。義父母の感情の波が穏やかなのは妻と同様。引越し後の後片付けもフルパワーの妻は笑顔で答える。子供が親の住まいを整えようとする際に、こんなに完璧を目指すのかという徹底ぶり。その愛情に感動すら覚える。逆に私ができることは限られるけれど、些かの役には立ったか。

「今日はサッカーの大会らしい。ただいま観戦中」サポートに行っている妻からLINEで報告。送られてきた写真はベランダで子供たちのプレーを見守る義母の後ろ姿。人工芝の緑と周囲の木々が心地良さそうだ。10月1日の「都民の日」を前に、この9月で義父母は東京都民となった。義父が倒れて4ヶ月余り、あっという間にご近所住まいになった。まだ部分的に現実感はないけれど、明日にはまた新しい家具が届き、夏物の整理もしなければと、現実の課題は毎日のように否応なくやって来る。「でも、これからは安心して旅行に行けるしね」と妻。やはりお気楽な(ちょっと照れ隠しの)妻だった。これにて「義父母都民化計画」第1弾の終了。

…か?

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