ラグビーOLDファンの呟き「RWCロス」

RWC1年15日が「成人の日」だった頃、毎年その日にラグビー日本選手権が行なわれていた。当時は社会人のチャンピオンチームと学生チャンピオンが日本一の座を争う人気の試合。お正月の風物詩として、晴着を来た女性が国立競技場の満員のスタンドで母校(あるいは彼氏の母校)の応援をするという映像が流れた。対抗戦の人気チームの早稲田、明治、慶應の3校の早慶戦、早明戦などはチケットがなかなか手に入らなかった。

RWC21980年に創刊された『Sports Graphic Number』は、ラグビー特集号になると書店に平積みにされ、あっという間に売切れ増刷された。日本選手権は、1978年から1984年にかけて7連覇を果たした新日鐵釜石に、毎年学生チャンピオンが挑み、破れるという試合が続いた。松尾雄治、森重隆、洞口、千田らの日本代表が揃った、そして地元の高校を卒業した選手が多い、泥臭さとスマートさを併せ持つ素晴らしいチームだった。

RWC37連覇の最後の3年間、釜石に挑んだ学生王者は同志社大学。平尾誠二、大八木淳史などが在籍した黄金時代で、彼ら2人が入社した神戸製鋼が1988年から1994年まで日本選手権で7連覇を果たした。この社会人2チームが圧倒的に強かったからこそのラグビー人気だったが、その強さ故に日本選手権のあり方は変わった。学生と社会人の優勝チームが日本一を争う形は、1997年で終わり、皮肉にもラグビー人気も陰ってしまった。

RWC4年のように足を運んでいた秩父宮に行かなくなってしまい、日本選手権のTV中継すら観なくなってしまったOLDファン(松尾のファンであり、釜石のファンだった)の私に火を付けたのが前回のラグビーW杯だった。いつの間にかラインアウトでのリフティングが反則ではなくなり、トライの得点は4点から5点に変わっていた。*調べると5点に変わったのが1992年、その頃からラグビーを見なくなっていたことが判明した(汗)。

RWC5グビーは国内の試合を観るもので、海外のチームには敵わない、テストマッチで日本代表が海外の代表チームに叩きのめされるのは観るに忍びない、という思い込みが木っ端微塵に破壊された。南アフリカ戦の劇的逆転勝利で涙した。あっという間にラグビー愛が蘇った。そして、今回のRWCでラグビー観戦(TVでも)未体験の妻を誘い、観戦したのは「フランスvsアルゼンチン」という好カード。妻は俄かに大ファンになった。

RWC6っとチケットを取れば良かったなぁ」と嘆く妻と、2人が住むマンションの1階にあるベルギービールバーで「日本vsサモア」の試合を観戦したり、沿線にあるファンゾーンを何度となく訪れたりした。そこでは子供たちがラグビー体験に目を輝かせていたり、各国のファンが地元住民たちと交流をしたりと、とても温かな空間だった。「良いね、この感じ。チケット手に入らないかなぁ」とますます嘆く妻。そこに…。

RWC7IGAさん、RWCの3位決定戦を観に行きませんか。一緒に行く予定だった母が行けなくなって」という神の声。妻思いの私は、ほんの一瞬だけ妻の顔が脳裏に過ったものの、躊躇いもなく(汗)「行く!」と返信。かつての同僚であるラグビー好き女子と「ニュージーランドvsウェールズ」の観戦に向かった。「オールブラックス」の黒、「赤い悪魔」の赤、そして日本代表のユニが目立つ客席は満席。観客は皆リラックスモード。

RWC9の席に座った母娘が手にしているのは、表に両国の国旗、裏面に両国の国歌(カタカナ発音付き)という力作。試合前の国歌斉唱の際には懸命に一緒に歌い、試合終了後の各チームの一列に並んだ挨拶の時には大きく国旗を掲げ、母娘仲良く実に楽しそうに両チームの応援をしていた。そんな心震え、涙しそうな風景を見て気が付いた。3位決定戦こそ勝敗に関係なくラグビーというスポーツを楽しめる試合なのかもしれないと。

RWC8い軍団は思う存分自らのラグビーを徹底し、判官贔屓のスタンドの観客たちは劣勢のいチームに声援を送った。楽しい試合だった。エンタテインメントだった。母娘の写真を撮ってあげたら、代わりに撮りましょうと手作り国旗を貸してくれた。良い大会だった。日本国中がラグビーの愉しさと、海外からのゲストを迎える楽しみを知った44日間だった。と、すっかりラグビーロス。日本全国にそんな人たちがいるらしい。

「良いなぁ…あと1試合くらい観たかったなぁ」お気楽妻が零す。よしっ!分かった。4年後、フランスに行こう!と妻に宣言すると、「おぉっ!」と妻が応える。ホントか?…お気楽夫婦のお気楽な生活は続く…模様だ。

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