シモキタで芝居を観終わった後に、決まって立ち寄る店がある。Aサインバー2号店。本多劇場、駅前劇場、「劇」小劇場、ザ・スズナリなどの本多劇場グループの小さな小屋が集まる下北沢南口。本多劇場で芝居を観終わり、舞台の後味を楽しみながら階段を下りる。「劇」小劇場の前を通り、シモキタの喧噪の中を歩き、僅か1分余り。芝居の余韻の残ったままでカウンタ席に座ることができる距離。俳優たちの台詞の残響をつまみに焼酎や泡盛を味わう店。「こんばんはぁ〜。今日もお芝居だったんですね」顔馴染みのスタッフから声を掛けられる。
ある週末、カトケン(加藤健一)を観終わった後、既に酔って赤い顔でカウンタに座った。その日は、実はちょっと浮気。シモキタの他の店で軽く飲み、食べ、(ちょっとがっかりし)2軒目の店とした立ち寄った。「ほっとするねぇ♫やっぱりこの店が良いね」と妻。泡盛の甕がカウンタに並び、焼酎や泡盛の瓶がカウンタ奥の棚に座す。深海の洞窟をイメージした照明。カウンタの上にガラスが嵌め込まれ、中には白い砂と貝殻、そして米ドル札。「ハッピーアワーですから、このメニューからもどうぞぉ♡」夜の9時までは、生ビールも何種類かの焼酎、泡盛も500円。乾きものおつまみもお得な価格。
既に食事をしてきてしまったお気楽夫婦。オリオンビールとウッチン茶で改めて乾杯し、ポテトチップを齧る。カリカリポーク、クーブイリチー、海ぶどう、ミミガーなどのお馴染みのメニューはお預け。残念。音楽がビリー・ジョエルの「アップタウン ガール」からビートルズの「ラブ ミー ドゥ」に変わる。ターンテーブルに載っているのは「Beatles 1962〜1966」いわゆる年代盤の赤。この店の魅力のもうひとつは、70年代から80年代を中心とした音楽。馴染みの客の好みに合わせ、さり気なく選曲してくれる心配り。お代わりは泡盛のロック。気分良く酒が廻る。
芝居の後味を楽しみ、酒を楽しみ、沖縄の味を楽しみ、音楽を楽しむ。3杯目の泡盛ですっかりご機嫌。隣に座る妻が、これ以上の深酒の危険を察知し、チェックをしている。ん、良い頃合いだ。毎回店の外まで見送ってくれるスタッフに挨拶して、向かったのはヴィッジ・バンガード。これもシモキタお約束のルート。本屋と名乗ってはいるが、サブカル系の雑貨店というのが近い、混沌としたディスプレーの店。酔って徘徊するにはぴったりの店だ。夜中だというのにワカモノで混雑する店内をぐるぐると廻る。酔いはゆっくりと醒めていく。
「さて、そろそろ帰ろうか」駅に向かう途中でふと思う。これは妻の作戦か。タクシーに乗る方向ではない場所に向かわせ、適当に酔いを醒させ、電車で帰る。なるほど。「電車で帰るよ!」と強行せずに、自然と駅に向かわせる、すぐにタクシーに乗りたがる酔っ払い対策。最後まで、芝居の街シモキタを楽しみ、味わった夜。妻の作戦に乗ったまま帰ろうか。最近、タクシー乗らないね。偉いよね。酔った私の呟きに「トーゼンでしょ!」と妻。酒は飲まず、酔ってない彼女の感覚が正しい。
■食いしん坊夫婦の御用達へ 「Aサインバー」
どんな仕事にもしがらみがある。人間関係は煩わしく、ストレスは溜まる。人は何のために働くのだろうか。有名な「マズローの欲求」によれば、人間の欲求は低次から次段階を目指すという。第一段階の欲求は「生理的欲求」。生きるために衣食住を満たしたいと思う段階。次は「安全の欲求」。経済面、健康的などの安全・安定を望む段階。そして次は「親和の欲求」。集団に帰属する、他者に受け入れられたいという欲求。さらに次の段階は「自我の欲求」。自分が集団の中で認められ、尊重されたいという欲求。そして最終的には「自己実現の欲求」となり、自分の持つ能力を最大限に発揮し、具現化したいと望む欲求ということになる。
仕事に置き換えると、経済的な理由で働くという段階から、その安定を求め、集団に帰属しながら、その中で認められ(昇進、昇格)、最後はエキスパートとして、道を究めるということになるのだろうか。一方で職業とは何だろうか。会社員というカテゴリはなく、小分類では、デザイナー、編集者、SE、アナリスト、ディーラー、コンサルタントなどというものが職業に当たる。自己実現とは、その職業において、エキスパートになること、極めること。
俳優という職業がある。映画俳優、TVが主な活躍の場である者、そして舞台を中心に演じる者がいる。加藤健一という役者がいる。彼は舞台俳優と呼んでいいだろう。稀にTVに出演する(かつて『思い出づくり』『金曜日の妻たちへ』などに出演した)こともあるけれど、一人芝居『審判』をやるために自分だけが所属する加藤健一事務所を30年前に立ち上げ、以来ずっと舞台に立ち続けている。芝居が好きな役者を招き、ニール・サイモンや北村想などの内外の脚本を演じている。キャスティングから演出、音響、美術なども自らがプロデュースする。舞台で演じる役者であり、舞台を創るプロデューサー。そして、1986年に俳優教室を設立し、若手の育成も行っている。
加藤健一の舞台を初めて観たのは1988年。『ザ★シェルター』という作品。加藤健一事務所VOL.7公演。以来、ずっと彼の舞台を観続けてきた。…ある週末、30周年記念VOL.75公演『モリー先生との火曜日』を観た。ルー・ゲーリック病(ALS)に侵された教師モリーと、最後の講義を受けるために毎週先生を見舞った教え子ミッチのノンフィクションを基にした物語。「どう死ぬかを学べば、どう生きるかは自ずと分かってくる」そんな重い台詞のひとつひとつが、それでも軽やかに、明るく伝わってくる。相変わらず良い芝居だ。そして悲しいけれど幸せな物語だ。ホームグランドとも言える本多劇場の客席は、加藤健一と共に年齢を重ねたファンで埋まっている。自らの職業感に疑問を持ち、モリー先生を訪ねることになったミッチ役の高橋和也(元 男闘呼組)も良い演技だ。
30年間、芝居だけで“食える”幸せ。年間に何十本も脚本を読み、その中から自分の気に入った脚本を選び、一緒に演じたい俳優を招き、自分の舞台を創り、その客席が埋まる幸福。決してメジャーな役者ではなく、韓流的に美形な俳優ではなく、というよりは顔も大きく、歳も取った。けれど、加藤健一は幸福な職業を選び、自己実現を果たした。最後まで先生という職業を全うしたモリー先生と加藤健一がダブった。彼の選んだ脚本や演出や演技に、涙が溢れる前に頷き微笑んだ。彼は幸せだよねと妻に問うと、「そうだね、幸せな職業だね」と頷いた。「やっぱり私は早く仕事を辞めたいなぁ」彼女の憧れの職業は、芝居を観て、スカッシュをして、美味しいモノを食べるお気楽な妻。あれ?既に実現していないか?
毎朝同じ時間に出勤する必要がない、という意味においては会社員ではなくなった。複数ある名刺にはそれぞれの企業や団体の肩書きが記されているけれど、それらは仕事の“一部”でしかない。一日中自宅で仕事をする日もあるし、土日や平日の深夜に申請書類や企画書を作成することもある。朝は短パン姿で妻をエントランスまで見送りつつ、朝刊を自宅まで持ち帰る。そんなタイミングで他の住民に出会う時には微妙な空気が流れる。「…また今日もお休みなのかしら?それとも…」という好奇心溢れる視線も注がれる。きっと気のせいなのだろうけれど。平日の明るい時間に隣にあるコンビニに向かうと顔馴染みのスタッフから挨拶される。この人は何やっている人なのだろうという疑念を持たれつつ。考え過ぎなのだろうけど。
奥田英朗の『家日和』には、いろんな家族が、夫婦が登場する。6つの家族、6組の夫婦の物語。それぞれの短編に、くすっと笑ってしまったり、身につまされるエピソードがたっぷり詰まっている。例えばその中のひとつ、「ここが青山」に登場するのは、会社が倒産し主夫となってしまった夫と、それを機に以前勤めていた会社に復帰しいきいきと働き始める妻。こう聞くとネガティブな空気が流れる物語を想像する人も多いと思うが、そんな人にはきっと肩透かし。それも良い意味で。主人公の湯村夫妻の肩に力の入らなさ加減が良い。妻の役割、夫の立場などという単純な構造の否定だけではなく、あるいはその逆転の面白さだけではなく、自分の青山(せいざん=墓場)の在処を自覚していく2人が実に良い。傍目を気にせずに自分を生きると、自分が活きることもある。
「家においでよ」の主人公は妻と別居することになった夫の巣作りの話。お気に入りの家具だけを持って家を出て行ってしまったインダストリアルデザイナーの妻。仕方なく生活用品を揃え直す夫。けれど、独りで家具などを選ぶ内に、妻とは微妙に好み、センスが違っていたことを改めて自覚する。その内に、オーディオセットやソファを揃え、実に居心地の良い“独身男の住まい”になっていく。別居を心配した同僚たちも、その部屋に魅せられ夜な夜な集まって宴会をするようになる。経済的に豪華なオーディオセットが買えなかった独身時代、経済的には購入可能になっても“男の部屋”を持つスペースはない。そんな男たちの理想の家ができてしまう。そして…。いやぁ、分かるぞっ!と膝を打つ男性も(女性も)多いはず。
平日の午前中、自宅の小さな書斎でパソコンに向かっている。もちろん、Tシャツに短パン姿である。妻が出勤準備をしている間に朝食の後片付けをし、掃除も済ませた。仕事のメールを何本か送った。この記事を書き終えたら、企画書を1本まとめなければいけない。それに、コンビニにお昼を買いに行かなければいけない。ゴミをまとめるのは明日で良いか。今日は午後から雨らしい。洗濯日和じゃないからバスタオルを洗うのは明日かな…。“日和”とは『広辞苑』によると、「空模様、天候。また、ある事をするのにふさわしい天候」とある以外に、「事のなりゆき、くもゆき、形勢」ともある。それぞれの家には、それぞれの日和がある。
*Amazonへリンク♬