学ぶということ、ことばを綴るということ『レトリック感覚』佐藤信夫
2008年 6 月01日(日)
佐藤信夫(さとう・のぶお)1993年没。私にとって憧れの“知性”だった。ソフトで知的好奇心をくすぐる語り口に一発で参った。大学入学まもなく、「言語論」という授業で初めてお目にかかった。毎週の授業が楽しみだった。“義務”として学ばなければならない小学生と違い、受験のために学ぶと言ってもいい中高校生とはなおさら違い、自ら学ぶことの楽しさを教えてもらった時間だった。研究者としても『レトリック感覚』という著書を出版されたばかりで、この手の書籍としてはかなり売れてもいたし、(私の持っているのは7刷!文庫化もされた)何よりも教える人としての魅力もたっぷりお持ちの先生だった。(ロラン・バルトなどの翻訳も手掛けられ、他にも『レトリック認識』『レトリックを少々』など、私の書棚にも何冊かの先生の著作がある)そして、何よりその文章は楽しげで、噛み締めるほど味わいが深くなった。今でも読み返すと、じんわりと先生の笑顔と共にその独特の語り口が浮かんでくる。そう、不思議なことに、パロールとエクリチュールが矛盾なく一致していたのだ。
「言語論」という哲学科の授業はお持ちだったものの、中級・上級フランス語も教えておられ(もちろん履修した)、大学での所属も哲学科研究室ではなく、外国語研究室だった。哲学科の私は佐藤先生に頼み込み、例外的に卒業論文の指導教員になっていただき、「Au commencement etait la fable(初めに神話ありき)」という拙論を書き上げた。この記事を書くために、久しぶりに書棚の奥から取り出して読んでみた。序章:はじめに神話はあったか~ロゴスとミュトスについて~、第1章:神話とは何か~神話の定義・分類・研究法~、第2章:神の名~系譜のノミナリズム~、第3章:政治的神話、第4章:大衆の神話、終章:はじめに神話ありき…面白い!自分で言うのもなんだけど、実にまともなことを書いている。きっと今の私よりしっかり物事を考えていたんだろうなぁ、という感想。
佐藤先生からも「なかなかいい論文である」という短いコメントと共に、「A」の評価をいただいた。記事を書きながら、四谷にあった先生のオフィス(書斎)を何度か訪ねたことを思い出した。こんな書斎が持てる、こんな書斎が似合う、そんな大人になりたいなぁと思った自分も一緒に。ん?計算してみたら、当時の佐藤先生は今の私ぐらいの年齢。果たして今、20歳ぐらいのワカモノに憧れの気持を持たれる知性ある大人になっているだろうかと自問する。勿論、否である。学ぶことの楽しさを教えていただき、文章を書くこと、表現することの面白さを学んだのに、お気楽なオヤジとなり、こうして駄文を綴っている私。でも反省したい訳ではなく、実は喜んでいるのだ。市井の人間が、こうして佐藤先生を自分のブログで紹介でき、少なからぬ数の人に読んでもらえるチャンスがある。これはかなり嬉しい。良い時代だ。
今日の記事を書こうと思ったきっかけが、三省堂本店の言語論コーナーにあった。10年以上前にお亡くなりになった佐藤先生の新(共)著『レトリック辞典』(2006年刊)を発見したのだ。出版前に倒れ、長い闘病生活の後に亡くなられた先生の遺志を継ぎ、佐々木健一東大名誉教授、松尾大東京藝術大学教授によって纏められたレトリック研究の結晶。パラパラとページをめくると、佐藤先生の語り口、『レトリック感覚』を初めて読んだ時の新鮮な気持が蘇った。しかし、その場では購入しなかった。(6,825円と高かったからではなく)いつか、この辞典のページをじっくりとめくり、自分が読んできた本(ブンガク系)のレトリックの解説を楽しみながら、その“佐藤節”とも言える軽妙で含蓄のある文章自体を味わいたい。そして、願わくば佐藤信夫先生が生涯の研究対象とした“ことば”を綴り続けたい。「え~っ!今日はこれで終わり?ぜんぜん面白くないし、オチもないよ!」…仕方ないよ、たまにはそんな日もあるんだよ、市井のオヤジにも。