栄枯盛衰、有楽町「日劇〜西武〜ルミネ」

YurakuchoSeibuの学生は、まず最初にアテネ・フランセのクラスを選び、空いている時間に大学の講義を選択した。そして平日の夜と土日はアルバイトでスケジュールが埋まった。花屋の土日1人店長、英会話学校のスタッフ、飲食店でのウェイター、ホテルの客室係など数多くの職種を経験した。そしてある日、自分の職業選択に影響を与える仕事に出会った。母の同級生が事務局長を勤めていた関係で紹介された日本中国文化交流協会だった。協会設立25周年事業の準備のために、会員への宛名書きなどの事務スタッフとして有楽町の事務所で働いた。会員リストには、井上靖、中島健蔵、千田是也、北村和夫、水上勉、栗原小巻などの著名人が名を連ねていた。25周年パーティで、そんなオーラ溢れる方々と接することができた。そして、思った。文化に貢献する仕事がしたい!…30年前の私。若いということは、つくづく青いということだ。

infomationさな組織だった日中文化交流協会への就職は残念ながら叶わず、他の非営利団体を探すことになった。けれど、いずれも定期採用を行っていない団体がほとんど。困った。そんな時、ある企業と出会った。「不思議、大好き。」「美味しい生活」などの糸井重里のコピーで人気の西武百貨店。情報発信企業を標榜し、セゾン文化なるものを生んだ、魅力ある企業だった。そして、その学生が入社した年に、西武百貨店池袋店は三越本店を抜いて売上高日本一になり、西武ライオンズの優勝の度に感謝セールを行い、1984年には待望の銀座(有楽町)に進出した。有楽町マリオンに阪急と共に出店した有楽町西武だ。日本劇場、丸の内ピカデリー、朝日新聞東京本社跡地だったその地は、池袋の下駄履き百貨店からスタートした西武にとっては、聖地のような場所だったに違いない。しかし、そんな黄金の時代もつかの間。すぐ後に百貨店の冬の時代がやって来る。

LUMINE1985年、西武流通グループから西武セゾングループと改称し、多店舗展開を行った。WAVE、無印良品、銀座セゾン劇場、リブロなど新たな業態も開発していった。かつての青い学生:私が望んだ文化や流行を創造する企業となった、ように見えた。けれど、やはり根幹は流通業だった。文化を売る企業ではなく、モノを売る小売業だった。そこで退社を決意した。その後、西武百貨店は過剰な不動産投資、グループ企業の不良債権問題などが起こり経営危機が表面化。ミレニアムリテイリング(そごう)と経営統合、その後商号は株式会社そごう・西武となり、さらに2006年にはセブン&アイ・ホールディングスの傘下に入った。かつて流通業の雄として小売業のトップに君臨した百貨店が、スーパーやコンビニを中心とした流通グループに吸収されるという、凋落する百貨店という業態を象徴する出来事だった。

YurakuchoLUMINEして2010年12月25日、有楽町西武が閉店。26年の歴史に幕を下ろした。開店当時、「マリオン現象」とまで呼ばれる人気だった店も、経営不振に陥っていた。フルライン展開でセゾングループのショーケースだった位置づけから、レディスファッション専門に業態を変えるなど、苦心を重ねた末、息絶えた。私は自分の属したその企業の凋落の象徴を寂しく思い、閉店前の有楽町西武を訪ねた。店頭に貼られたお客様へのメッセージを読むのが辛かった。その跡地を巡る複数企業の争奪合戦が行われ、JR東日本系ファッションビル「LUMINE」が勝利。ルミネとしては待望の駅ビル以外での展開、それも銀座(有楽町)地区への初進出となった。かつて映画やレビュー、歌謡ショーなどで“文化の殿堂”だった日劇から、情報発信企業と称した西武へ、そしてルミネへ。…有楽町での栄枯盛衰。

る日、お気楽夫婦は有楽町ルミネを訪ねた。TOHOシネマズ日劇で、『ミッション:インポッシブル4』を観るために。そして、日劇の名を残す大劇場で映画を観た後、有楽町の街をぶらり。いろんな思いが溢れた。かつてアルバイトとして働いた日本中国文化交流協会の事務所は今でも有楽町にある。そして、その会長は、かつて勤めた西武百貨店の会長であった堤清二であり、詩人で作家の辻井喬なのだった。

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