50年目の涙「祝♡金婚」
2012年 9 月29日(土)
義父母のために数年前から計画していたことがあった。結婚式を挙げた会場で親戚や友人を集めて食事をしようか。どこか行きたいところがあれば一緒に旅行しようか。義父母に尋ねる度に「気を遣っちゃうから、大げさなことはしなくて良いよ」「遠くまで行くのは疲れちゃうから、近所が良いね」そんな答えが返って来た。じゃあ、近くの温泉の旅館のゼータクな部屋に泊まって、家族だけでお祝いしようか。「それが良いね」何度目かの提案が受け入れられ、浜松の奥座敷である舘山寺温泉のとある旅館の2部屋を年明け早々に予約した。義父母の結婚50周年、金婚をお祝いするささやかな計画。
「今度温泉行くんだってぇ。良いなぁ。伯母ちゃんたち、とっても楽しみにしてたよぉ」近くに住む妻の従妹から連絡があった。お気楽夫婦にはそんな素振りは見せないけれど、どうやら楽しみにしてくれているらしい。いつもニコニコとしている義母はまだしも、お気楽妻と同様に義父のリアクションは薄い。出しゃばらず、口数少なく、押し付けず、目立つことは避け、実直に仕事をして来たであろう義父とは、おそらく3分以上の会話をしたことはない。私が一方的に話を続けることはあっても、義父は柔やかに短いことばを返すだけ。感情の起伏も小さい。そんな義父も楽しみにしてくれているのか。思わず頬が緩んだ。
浜名湖に面する旅館のロビーは、吹抜けの高い壁一面がガラスの開放的な空間。対岸に見える大草山の端正な姿が美しく映える。予約したのは温泉展望風呂付きの豪華な客室。浴室の窓を全開にすると、露天風呂気分を味わいながら浜名湖が一望できる。期待以上に良い部屋だ。「ゼータクな部屋だねぇ」義父母が恐縮しつつも声を弾ませる。宿泊客限定のサンセットクルーズを楽しんだ後は、お祝いの席へ。箸袋やメニュー表に旅館からお祝いのメッセージが印刷されている。「後ほど記念のお写真をお撮りして、明朝お持ちいたします」細やかなサービスが嬉しい宿だ。
おめでとうございます!と乾杯をした後、義父が緊張した面持ちで声を発する。「それでは、お礼の挨拶を…」浴衣の懐から手書の原稿の束を取り出す。手が震える。声が出ない。最初のひと言を絞り出す前に、感極まって涙を流す。予想外の展開に戸惑い驚くお気楽夫婦。ようやく切れ切れに挨拶文を読み始める義父。義母と出会い、貧しいながらも幸福な結婚をし、長女である妻が生まれ、家を建て、退職後に現在のマンションに移り住み、慎ましやかに暮す、現在までの夫婦の歴史を涙を零しながら訥々と語る。若き義父母の姿を想い、老いを受け入れながらも病気がちな義母を気遣う心情を思う。
「初めて聞いたこともあったよ、びっくりしたなぁ」妻が挨拶を終えてようやく落着いた笑顔になった父親に声をかける。50年、半世紀もの間、仲睦まじく寄り添った先輩夫婦の佇まいを眺める。身の丈に合った、ささやかな幸福を味わっている姿は、いじらしいぐらいに温かで、穏やかで、そして何だか涙が溢れる程美しい。「ウチもずっと仲良くいなきゃね」と妻。そうだね、お義父さんのように優しくいなきゃねと、こっそり付け加える秋の日だった。