陳建民さんの直弟子だった店主の西脇さん(僕らはずっとただ“おぢちゃん”と呼んでいた)は、若い頃は毎年のように四川省の成都を訪れ、晩年も成都から食材を取り寄せていた。ご近所の名店「萬来軒」の開店は1979年。四川料理という呼称はまだ馴染みがない上に、「麻婆豆腐」に中国山椒を使う店はまだ少なく、客に辛い!と叱られたらしい。その痺れる山椒の麻味(マーウェイ)に魅せられ、30余年通い続けた店だった。
人に教えず内緒にしておきたい店ではなく、友人たちを誘ってワイワイと食べるのが似合う、お気楽夫婦自慢の店だった。30年余りの間、延べ何十人もの友人たちを誘って一緒におぢちゃんの料理を味わった。美味しいと言われては喜び、また来たい!また連れて行って欲しい!と言われて嬉しい店だった。その店が42年の歴史を閉じた。ここ最近病気で入退院を繰り返していた、僕らの愛するおぢちゃんが亡くなったのだ。
麻婆豆腐だけではなく、「四川水餃子」がお気楽夫婦のお気に入りだった。大き目のワンタンのような餃子を茹で、芝麻醤が香るタレと辣油でたっぷりと和えてある。添えられた青菜の緑と、紅い自家製の辣油、胡麻と餃子の白が食欲をそそる色合い。味や香りはもちろん、見た目も、歯触りや舌触りも、絶品の一品。毎回飽きる事なくオーダーしてきたから、数十回は食したであろうひと皿だ。他にない、まさしくおぢちゃんの味。
上海蟹の季節を待ち侘びて、秋になるといつもの仲間たちと集まる店だった。大勢でメスがに、オスがにを分け合って食べる楽しさ。いつの間にか自分専用のカニフォークを持ち込んだり、参加者全員にキッチンバサミをプレゼントしてくれるメンバーも現れた。お気楽妻は自宅から全員のおしぼりを毎回持参した。夫が妻にカニの身を選り分けるのも恒例。年に1回のイベントを皆が楽しみにしてくれていた。楽しい会だった。
商売っ気のない店だった。「上海蟹、今年はLサイズにしたから、去年より100円だけ上げて1,900円にしました」と、申し訳なさそうにおぢちゃんが言った。麻布十番の高級中華料理店が1杯5,000円ほどの頃の話だ。「すいません。今日はいっぱいで」と新規の来店客を断るおばちゃんの声を聞いて、テーブル空いてるし!と皆んなでツッコミを入れた。「夫婦2人で食べて行ければ良いのよ」とおばちゃん。そんな店だった。
萬来軒のおぢちゃんが退院したから久しぶりに集まろう!といつものメンバーを招集したのは4年前。「この餃子が食べたかったんだよね」「麻婆豆腐も食べなきゃ」「坦々麺も食べたい!」といつもの味を堪能した後には、ホールに出て来てくれたおぢちゃんと記念撮影。痩せてしまったけど、まだまだ元気そうだ。「遺影になるんじゃないの」と、おばちゃんも相変わらずだけど、戻ってきたおぢちゃんの姿に嬉しそうだった。
けれど、その後再びおぢちゃんの入退院の日々が続き、コロナ禍も重なり、店はしばらく閉まったままだった。何となく電話をするのも憚られ、何度も店の前まで様子を見に行ったが、店が開く気配はなかった。そしてある日、人伝におぢちゃんの訃報を聞き、閉まったままの店を訪ねた。裏口で迎えてくれたおばちゃんの案内で、店の中に置かれたおぢちゃんの遺影に手を合わせた。店内には手書きのメニューが壁に残っていた。
懐かしいメニューを眺めながら、牡蠣の辛み炒めがもう一度食べたかったなぁと、口に出すと自分の声が濡れているのが分かった。そこで慌てて、おぢちゃんの焼餃子が基準になってるから、他の店で食べる時、困っちゃうんだよねと、憎まれ口を叩いた。するとおばちゃんが「退院して戻ってきたら世話になったお客さんたちに食べてもらおうって、食材がいっぱい買ってあって、それが山ほどあんのよ」と話してくれた。涙。
サヨナラおぢちゃん。あなたはそんな人でしたね。早めに客が引いて、最後の客になった僕らと一緒に、実に美味しそうにビールを飲んでいた。「1本だけって言われてて、もうこれしか飲めないんですよ」と、それでも笑顔でビールを味わっていた。また一緒に飲みたかった。「やりたいこと全部やったからお迎えが来たのよ」と、久しぶりのおばちゃん節が聞けた。気丈にそう言うけれど、おばちゃんはやはり淋しそうだった。
「何か時代がひとつ終わっちゃった感じ」お気楽妻には珍しく、大袈裟な感想だ。でも、実にその通り。一代限り、いつか食べられなくなってしまうと覚悟していたけれど、その日がやって来てしまった。おぢちゃんの残した食材で、おばちゃんが餃子だけでも作ってくれる機会があれば、連絡をしてもらうことにして店を出た。当てにせず、それでも楽しみに待つことにしよう。合掌。
術後3ヶ月の診察で担当医が宣うた。「うん、これは順調だ。フツーの生活して良いよ。コルセットも外しても大丈夫。あ、今日してきたんだ」1ヶ月目の診察でハードなコルセットをせずに受診して、完治を保証しないと脅かされたから装着して行ったのに、この言い草だ。とは言え、嬉しいご宣託だ。「あ、運動はまだダメだよ」ん?私にとって普通の生活とは、週に数度ジムに通い身体を動かす生活のことだ。
ではいつから可能かと尋ねると「2ヶ月だな。次回2ヶ月後に診察して、たぶん大丈夫だろう」詳しく確認すれば、自転車はOK、ストレッチはダメ、走るのはNG(その時の自分に走れるとは思ってはいなかったが。着地の際に患部がハデに痛むのだ)腰を急に捻っちゃダメだよ!とのこと。やはりスカッシュは術後1年後か。何たってあのスポーツは、腰を捻りまくる。瞬時に動く。走りまくる。思えば身体に悪いスポーツだ。
フツーの生活をさっそく実行だ。コロナ禍で遠ざかっていたとは言え、12月は1年間お世話になった店に年末のご挨拶に伺うのが恒例だ。松陰神社前の「ビストロ・トロワキャール」ではビストロ料理の師匠でもあるシェフの聡ちゃん、マダムのまゆみちゃんに入院中のエピソードを披露。用賀の京料理の名店「本城」では大将とお互いの症状を語り合う。すっかり話題が病気やら体調やら。つくづく歳を取ったものだと実感する。
神泉の「遠藤利三郎商店」の若手女性スタッフがソムリエ試験に合格というNEWS。それはお祝いしなきゃと店に向かった。いつもの席に案内され、シャンパンとスパークリング(妻は水)で乾杯。相変わらず料理はストレートに美味しいし、合わせて選んでいただくワインもぴったり。いつものようにワイン袋持参でオススメのお手頃ワインを何本か持ち帰り。術後に何故か酒量が減った代わりに、ささやかな店への応援として。
ビストロ808も再開した。友人を自宅に招き、シェフ(私のことだが)のお任せ料理を召し上がっていただく完全個室(笑)のビストロ。ゲストは自分の飲みたいものを飲めるだけ持参するのがお約束。その日のゲストは2人で泡と赤白各1本を飲み干した後、「カラオケ808」に店名変更した店内で熱唱。皆でカラオケBOXに行くのも躊躇ってしまうご時世だから、次回からそのメンバーの恒例となりそうな予感だ。まぁ、それも良し。
自宅で食事する際は、お気楽妻が専属シェフと呼ぶ私の出番だ。フツーの生活、すなわち家事三昧の日々。今まではコルセット装着しているために腰を曲げられず不自由だった身体が(完全ではないが)解放された。掃除機のコンセントの着脱も、トイレ掃除も、もちろん料理も妻の手を煩わせることもない。朝食を作り、妻の出勤を見送った後に掃除、洗濯、そして引き続きのリモートワークの日々。*出勤はまだ週に1,2回程度。
残るのは運動不足の解消、すなわち増え過ぎた体重を戻すこと。担当医のことばを拡大解釈し、着地の衝撃のないクロスウォーカーやエアロバイクの利用限定でジムにも通い出した。鈍った筋肉も回復しつつあるようで、代謝も上がり汗がかけるようになってきた。2着しか着られなくなっていたスーツを着回すのは限界がある。全てのスーツが着られるよう腰回りの贅肉を落とさねば。それができて初めて「フツーの生活」だ。
コロナ禍に加えて、脊椎管狭窄症の手術、長期療養というフツーではなかった私の2021年が終わろうとしている。フツーではなかったからこそフツーの有り難さがしみじみ分かった1年でもあった。何年(フツーなら?2年弱)か後に妻の卒業(定年退職)を控え、お気楽夫婦にとって本格的な老後が目の前に見え始めている。人生の終盤をどのように生きたいか、そのための手術でもあった。骨が付くまであと数ヶ月、待ってろよ2022年!まだまだしばらく元気でいてやる!
去年のちょうど今頃、三国湊を訪ねた。コロナ感染拡大もひと息ついていた頃を見計らい、地元福井に住む友人夫妻と一緒に街を散策。江戸時代に「北前船」の寄港地として栄え、今もその面影を残す情緒溢れる街並み。初めて訪れた街なのに、懐かしさを感じながらのんびり歩く。懐かしさの源は街の佇まい。実は私の生まれ故郷も(今はすっかり寂れてしまったが)北前船の寄港地であり、藩の番所があった小さな港町だった。
三国湊の街は、私が幼かった頃の記憶を呼び覚ますタイムカプセルだった。板張りの壁、窓の格子、屋根上の梲(うだつ)、私の故郷ではとっくに失われたものが、この街にはきちんと保存されていた。観光資源としての意味だけではなく、実際の住まいとして、あるいは改装されたオシャレな宿として、現役で生きていた。私の中に沈んでいた記憶を道連れに、港に続く道を歩きながら、私は時空を超えて故郷の街を訪れていた。
街が賑やかだった頃には、田舎町でありながら『ニューシネマパラダイス』のような小さな映画館や、地元で漁れた魚を見せるような小ぢんまりとした水族館があった。海岸は人気の釣場だった。まだ多くの学校にはプールがなかったこともあり、内陸部の小中学校の海浜学校の目的地となり、夏には多くの海水浴客で賑わった。海岸の近くには旅館や民宿が何軒もあり、今で言えば夏のリゾート地(笑)として地元で人気の街だった。
8月には毎年花火大会が行われた。まだレジャーが少なかった時代、その地方の夏の一大イベントだった。子供たちはその日を楽しみにし、当日は大勢の見物客が訪れ、堤防の打上げ会場を望む海岸沿いの私の生家にも親戚や父母の友人家族が集まって、ささやかな宴会が開かれた。そんな夏の風景は今も続いている、ものだとばかり思っていた。実は50年続いたその花火大会は、21年前、2000年を最後に開かれなくなっていた。
偶然その事実を知ったのは、あるクラウドファインディングサイトで見つけた企画だった。「奇跡の花火をもう一度!」というタイトルには私の生まれ故郷の名前があった。2020年に奇跡の花火が上がった。コロナ禍で中止になった他の大きな街の花火大会の代替として、20年ぶりに花火が故郷の海の上に咲いたのだと言う。その景色は地元の多くの人を感動させ、かつて開催されていた花火大会の記憶や思い出を呼び醒ました。
そして、コロナ禍が続き、地元の漁業、観光業などが苦しむ中、その閉塞感の打破を願い、再び今年も小さなイベントとして開催したいのだと言う。そして偶然は重なり「イカ侍」を名乗る実行委員長は、私の末弟の同級生で、地元で100年ほど続く寿司屋(以前は旅館経営)の店主だった。これはイカ侍を応援せねばなるまい。リターンは開催記念のDVDだけ、海産物などはご遠慮するとメッセージを付けて寄付をした。
秋も深まったある日、季節外れの花火が届いた。制作には時間がかかったようだが、誠実を絵に描いたようなDVD映像が完成していた。企画は成立したのだ。花火が上がった時間は決して長くはなかったけれど、故郷を離れて40年以上経ったおやぢを泣かせる力があった。地元を愛する魂が籠った映像だった。集まった資金は無事に目標達成。賛同者の中には懐かしい同級生や知った名前も多かった。誇らしく嬉しい成果だ。
「美味しいね、このホッケ。部屋中サカナ臭いけど」と苦笑いの妻。狭いマンション暮らしの我が家は、実は焼き魚禁止。以前、妻のいぬ間にこっそり秋刀魚の開きを焼いてバレたことがあった。それ以来の焼き魚。それもレンジからはみ出すほど巨大なホッケ。大会開催に使って欲しいからと、断ったはずの海産物セットがDVDに続いて届いたのだった。一夜干しのイカ、大量のハタハタ、どれも美味しいけれど、やれやれだ。
来年も実施できるようまた寄付したいと呟くと、「海産物なしでね」と妻が返す。そして、「美味しい魚は地元で食べれば良いしね」と、きっと続いたはずだ。