誕生日前日の朝、悪い予感は悪寒と共にやって来た。遠くで喉が痛いけれど、いつもの風邪の予兆とは少し違う。何かもっと悪意に満ちた塊が身体の奥に潜んでいる。ほぼ同時に瞬間的な震え。その日の朝も寒かったのだけれど、外からではなく身体の内側からの震え。あ、いるかもしれない。そんな絶望的な予感を抱え、念のために抽斗の奥からマスクを引っ張り出し、近所の病院に向かった。「どうされましたか」という受付のオバちゃんの問いに、風邪かもしれないと希望的な感想を伝える。「では熱を測りましょうか」と体温計を渡される。36度5分。平熱が低い私にとっては微熱。そして診察。「あぁ、喉は少し腫れてますねぇ。念のためにインフルエンザのテストをしましょうか。ちょっと痛いですよ」鼻孔に通される長い綿棒は、ちょっとどころか泣きたくなる程痛い。「では結果をお待ちください」と言われて、5分。
「A型ですね」え?私の血液型はB型ですが、などと突っ込みを入れることもできない。きっぱりとした無情な宣告。人生初インフルエンザ。現実感がないけれど、あぁやっぱりなぁとも思う。自分の予感を無意味にさすがだ!と誉める。この先1週間ほどの予定が頭の中をぐるぐる巡る。「ウィルスはこれで増えなくなりますが、しばらくは外出せず、家の中でもマスクをしてください」処方された薬は「イナビル」という吸入粉末薬。最初に1度(2回)吸入するだけで、ウィルスの増殖を阻害するらしい。会社や当日訪問する予定だった客先など、電話をかけまくる。インフルエンザは免罪符。お大事にというメッセージには、迷惑だから無理して出てこないでね、というニュアンスが滲む。早期に診断され、周囲に迷惑を掛けていないことが救い。その夜、ウィルスと戦っている身体から38度4分の発熱。頑張れ、私の身体。
誕生日、そして隔離2日目。熱も37度台まで下がり、いつも通りに妻のサラダ弁当を作る。マスクをして調理をしていると、給食のオバちゃんになった気分になる。ぼぉ〜っとしたままで自宅仕事を始め、不思議と順調に資料を作り終える。読みかけの『中国の歴史 第10巻 巨龍の胎動 毛沢東vs鄧小平』を読み始める。病院の帰りに買込んだ食材で昼食を作って食べる。午後の遅い時間に鄧小平が亡くなり、夕方には日中関係の課題の根源を再認識しながら読了。まだ時間はたっぷりある。けれども外出はできない。時間があったらやりたいことがたっぷりあったはずなのに、なぜか時間を持て余す。書斎派に徹することができない。妻が誕生日だからと、お寿司を買って帰って来てくれる。箱寿司の詰め合わせ。見た目彩りも麗しく、美味しい。食欲はあるがビールを飲もうという気持にならない。当然か。
週末、いくつか約束があった。土曜日は誕生日をホテルでお祝いしよう!という毎年恒例の企画。シングルベルで集まったレディースたちとの夜景を眺めながら飲もうと企画したパーティ。ところが、夜景どころか、その日の未明から降り続いた雪で、中止。「飲めないIGAさんの前で飲むっていう、希有なシチュエーションを天が許さなかったのかなぁ」と参加する予定だったメンバーが呟く。翌日、2月9日は29:肉の日。肉食系のカップル2組と共に、ずっと前から予約して楽しみにしていた企画。メンバーの1人が風邪を引き、残念ながらこれまた中止。予約したビストロのデリを妻に持ち帰ってもらい、せめてもの自宅ビストロメシ。とは言え、体調は万全ではなく、料理は美味しいのに、ビールを飲みたいと、ワインが欲しいと、思えない自分が不思議で仕方がない。インフルエンザ恐るべし。
「また降っちゃったね(涙)」ホテルでのバースデーパーティをただ中止にするのは残念と、2月14日のヴァレンタインデーに延期。調整しなくともヴァレンタインデーにスケジュールが空いていたシングルレディたちの集いが、またもや大雪で中止。「私、晴れ女だったのに、雪女になっちゃったかなぁ」とメンバーの1人が苦笑コメント。Facebookやメールで大勢の方からお祝いのメッセージをいただいたけれど、56歳の誕生日祝いは行き場もなく宙に浮いたまま、2度目の大雪の週末を迎えたのだった(涙)。
2013年9月8日(日本時間)午後、2020年東京オリンピックの開催が決定。日本中が湧いた。その数時間後の9日深夜、東京五輪での実施競技枠残り「1」は、第1回の投票で過半数を獲得したレスリングに決定した。次いで野球・ソフトボール、そしてスカッシュは残った3競技の中で最下位に終わった。日本の各放送局は、3競技の関係者がそれぞれに集まる会場を中継し、決定の瞬間にカメラを回した。スカッシュ会場にいた選手のひとりが、松井千夏だった。*呼び捨てゴメン(以後同)周囲に憚ることなく嗚咽を漏らす彼女にスタッフが声を掛ける。そして気丈に、悔しい、でも止めたくないし、諦めたくないとコメントした。そんなシーンを含め、NHKのある番組が彼女をずっと追っていた。『アスリートの魂』という、毎回1人のアスリートを取り上げるドキュメンタリー。放送日は2013年11月、全日本選手権の直後だった。
「千夏と久しぶりにご飯食べたいなぁ。IGAさん、セッティングお願いできませんか?」千夏の先輩であり、大学は違うが同じ時期にスカッシュをやっていた前職ぴあの後輩(新婚♡)から声が掛った。NHKの番組を視た彼女は「あぁ千夏頑張ってるんだなぁと思って」会いたくなったのだという。彼女がそう感じるのが分かる、実に丁寧に取材された良い番組だった。千夏とお気楽夫婦の出会いは1999年。当時まだ日体大の学生だった彼女の先輩でもあるコーチのレッスンを受け始めた頃だった。コートの中の彼女は輝いていた。いつも真剣な目でボールを追っていた。その美しいフォームに魅せられた。スカッシュを愛し、楽しんでいるのが伝わるプレーだった。けれど、コートの外に出るとおとぼけ系の素朴な女子大生。そんな彼女にすっかり大ファンになった。そして同じ頃、今や新婚の後輩がぴあに入社。そんな4人の縁。
その後、プロのスカッシュプレーヤーとなり、2001年に当時としては最年少の日本チャンピオンとなった千夏。以降、毎年のように全日本の決勝に進出し、優勝すること4回。日本スカッシュのトッププレーヤーとして、並行してTVなどにも積極的に出演することで、スカッシュを盛り上げメジャーにしようと頑張ってきた。その為にもアイドル的なアスリートとしてマスコミに取り上げられることも、良しとして来たに違いない。その間もずっとトップであり続けた千夏。その集大成がオリンピック競技として採用されることだったはずだ。お気楽夫婦は、そんな千夏をサポートしたいと思いながら、せいぜい2人にできることは試合の応援に出かけたり、美味しいモノをご馳走することくらい。それでも一緒に食事をする度毎に、その時の彼女の思いを聞くことができた。そしてスカッシュ落選で、彼女の今後が心配でもあった。
「良いですよ」食事の前にスカッシュはどうかという千夏に送ったメールに、予想外の返信。シャレ半分だったのに。当日、久しぶりに一緒にコートに入る。エレガントで美しいフォームも、軽やかなフットワークも変わらない。「ひぇ〜っ、もう休みます」スカッシュは数年振りだという新婚後輩女子は早々にダウン。プライベートで来てくれたこともあり、コート内でずっと声を掛けながら気さくに一緒にプレーしてくれる千夏に周囲のメンバーは大喜び。「楽しかったぁ。やっぱりスカッシュは良いですね」15分しかプレーできなかった後輩女子の瞳も輝く。「千夏も、千夏に相手してもらってる人も楽しそうですよね」そうなのだ。千夏のスカッシュは変わらず魅力的であり、スカッシュを魅力的なスポーツにする力がある。やはり千夏は日本スカッシュ界のアイドルであり、スカッシュ♡伝道師だと再認識。
「このピッツア美味しいですね。もう1枚?ぜんぜん大丈夫です♬」スカッシュの後、向かったのはナポリピッツアで有名な「ISOLA」というトラットリア。旺盛な食欲も変わらず、パン好きも、スイーツ好きも以前のまま。「ねぇ、千夏は60歳の頃、何やってると思う?」学生時代の同じ時期にスカッシュというスポーツを通じて知り合っただけに、新婚後輩女子の質問は内角をえぐるような内容だったりする。「きっとスカッシュやってますね」けれど、千夏もさらりと返す。なんだか良いなぁ。ずっと先輩、後輩の関係の体育界系女子2人を見守る、お気楽夫婦はまるで親の風情。「今年の東アジア大会は、私のスカッシュの集大成になると思います。ぜひ観に来てください」と千夏。9月、仁川。これからの千夏のスカッシュ人生に繋がるであろう、集大成となる試合を魅せてもらおうか。
ワールドカップと言えば今や誰もがサッカーを思い浮かべる。ラグビー、スキー、バレーボール、卓球など、他の競技もワールドカップを冠した大会を開催している。しかし、その歴史と言えば、サッカーの第1回ワールドカップが1930年、他はせいぜい1980年代のスタート。それに対し、国別世界選手権をワールドカップの別名とするなら、テニスのワールドカップ(男子)=デビスカップの第1回大会開催は1900年、サッカーの30年も前の老舗大会。日本代表は初出場が1921年、なんとチャレンジラウンドに進出しアメリカに敗退するが、準優勝の活躍をする。これは凄い。ちなみに代表選手は、清水善三、熊谷一弥、柏尾誠一郎の3人。全米でベスト4になった熊谷。彼は1920年のアントワープ五輪で柏尾と組み、単複で銀メダルを獲得。清水も同年の全英でベスト4になるなど、錚々たるメンバー。日本はテニス強豪国だったのだ。
その後も、佐藤次郎が全英、全仏などでベスト4に入るなど、第2次世界大戦まで日本はテニス強豪国であり続けた。今となれば夢のような日本テニスの黄金期。戦後、1955年に宮城・加茂のペアが全米のダブルスで優勝するものの(これも凄いけどね)、戦前の活躍に比べれば長い低迷期に入る。同時期に皇太子(今上天皇)と美智子妃(皇后)の影響などもあり、一大テニスブームが起き、テニス愛好者は増えたけれど、デビスカップでは勝てなかった。何度かルールや予選ゾーンが変わったので単純比較できないが、現在のワールドグループ(16ヶ国)に入ることもできない大会が続き、入っても1回戦で強豪国に圧倒的な力の差で跳ね返された。女子こそ沢松和子、伊達公子、杉山愛など世界で戦える選手が次々に生まれたのに、男子はせいぜいが1995年全英ベスト8の松岡修造止り(たいへん失礼!)だったのだから仕方ない。
…そこに救世主が現れた。ご存知「エアK」錦織圭である。個人の成績は言うまでもなく、2013年に記録した最高ランク11位は、間もなくトップ10入りを期待させるものだった。錦織は2008年から日本チーム入りし、勝ちが期待できるエースになっている。ところで、デビスカップは初日から単2、複1、最終日に単2で、3勝したチームが勝利となる。つまり、エース対決で錦織が2勝するだけではダメなのだ。2014年2月1日、お気楽夫婦はデビスカップワールドグループの1回戦、対カナダ1勝1敗で迎えた2日目の会場にいた。前日の夜、テニス関係者との懇親会の(早い話が飲みの)席で聞いた情報に期待していた。関係者曰く、日本が勝ちに行くためには錦織をダブルスに出すしかない。ランキング11位のラオニッチは怪我をしているが、帯同している。カナダがダブルスで勝てば、1試合だけなら出場するかもしれない、と。
会場の有明アリーナに到着すると間もなく、うぉ〜っと歓声が上がった。錦織くん出場!さすがプロの読み通り。会場が一気に盛り上がる。その後、選手入場。日本選手に、そして錦織くんに一段と大きな拍手。と、それも束の間、20名程のカナダ応援団が太鼓などの鳴りモノで、数千人の日本応援団を上回る歓声。まずい雰囲気。と、それも杞憂に終わる。試合が始まれば日本チームのペース。錦織のプレーは輝いている。けれど彼だけではなく、ペアの内山も実に良い感じ。ダブルス巧者のベテラン選手ネスター(ダブルスランキング最高1位、現在21位)をも圧倒する。ドロップボレーを錦織がしぶとく拾う、サウスポーのネスターのバックサイド狙いの日本ペアのストレートが鋭く抜けて行く。内山の200km/sを超えるサービスが相手コートに突き刺さる。リターンでもエース♬ひょぉ〜っ!思わず声が出る。快感。爽快。実に気持良い!ニッポン!ニッポン!てなもんである。
「プロのテニスの試合って生で観るの初めてだけど、面白いねぇ♬」興奮気味に妻が語る。互いに仕事があり、最後まで観戦できなかったことが残念でならない様子。結果は3-1で日本勝利。そして翌日、シングルス2勝で、通算4-1でカナダ戦勝利!ベスト8進出の快挙。ある(前述とは別の)テニス関係者が、日本代表の試合なのに、ホームでの試合なのに、もっと会場に応援に来て欲しい!との思いで、巨大な日の丸を自費で会場に添え付け、毎回応援している。今回はその意気に感じての観戦。でも、目覚めた。デビスカップは面白い。サッカーならワールドカップの本戦のようなものなのに、チケットも安い。愛国心はなくとも、自然と応援に力が入る。可能な限り毎回応援に行こう!声援は選手の力になるはずだ。「次の試合は4月にまた有明だって♬」と妻。ここにもうひとり目覚めた者が。