大学3年生の甥っ子がいる。12月1日から企業エントリー解禁。就職活動がスタートした…はず。新年会を兼ねて様子を聞いてみようか。ワカモノは何が食べたいんだろう。肉かなぁ。しゃぶしゃぶはどうだろう。「良いねぇ、しゃぶしゃぶ。たまには肉を食べようか」と妻が珍しく即答。「だったら赤坂のざくろが良いかな」むむ?知らん。「赤坂OL時代によくランチ食べてたなぁ。自分では払ってないけどね」と、妻の20代、小悪魔時代の片鱗をのぞかせる逸話。店はご接待モードに満ちた作り。予約の際に個室だと別料金、別メニューと言われたのも頷ける。少しは飲めるようになったという甥っ子と、まずはビールで乾杯。しゃぶしゃぶの中くらいのコースをオーダー。鍋の近くに置くと脂が溶け始める、たっぷりとサシの入った肉。「すごく旨いです」きっぱりと答えるワカモノ。
「東京で就職しようと思ってます」あれ?田舎に帰るんじゃないのか。聞けば、初めてアルバイトを経験し、仕事について思うところが多々あったらしい。ふぅむ。人事部に在籍している妻と共に模擬面接。質疑応答を繰り返し、アピールポイントなどをアドバイス。話し始めるとなかなか良い視点。初めて甥っ子とオトナ同士の会話が成立。なんだか嬉しくA5ランクの肉を追加。「こんな肉、食べたことないです」だろうな。ウチもないもの。この牛肉1枚が君の時給よりも高いんだ。モノの価値、働くことへの対価、そのバランスで成立する食文化について、彼はきっと学んだに違いない。「ごちそうさまでした」次は就職祝いで、銀座辺りに何か美味しいもの食べに行こうな。「はい。銀座も行ったことないです」今回の赤坂も初訪問だという、そんな初心な甥と赤坂駅で別れる。迷子になるなよ。
学生時代の終盤、私は何をやっていたのだろう。遥か遠い昔のような、ごく最近のような、自分の学生時代を振り返る。3年までの間に必要な単位はほぼ取得。4年では最小限の授業だけ履修し、大学には余り行かなかった。アテネフランセに通い、アルバイトを掛け持ちし、お金が少し貯まると旅に出かけていた。冬のフランス、スイス。春の吉備路、夏の京都、出雲、九州。貧乏旅行ではあったけれど、その時でなければ行けなかった場所を訪れた。まだ卒業旅行ということばは世の中にはなかった。海外に出かける学生も少なかった。旅から帰って来て、次のバイト代が振込まれるまでの3日間を1,000円でいかに暮すか、などという生活を(今思えば)楽しんだ。お米と安いウィスキーがあれば、毎日何とかなった。
学生時代に経験したバイト先は高級飲食店が多かった。理由は明快。時給が高いこと。銀座らん月、ホテルニューオータニ、パレスホテルなど。どこも賄いの夕食が魅力だった。たまに貧乏学生にはゼータクな客向けの料理の味見もできた。初めてローストビーフを食べたのもバイト先だった。サービスのあり方、接客のAtoZを学んだ。どんな小さな店でも複雑だった人間関係を体感した。失敗もした。キツく怒られたこともあった。他にも英会話学校、日中文化交流協会という非営利団体の仕事も経験した。もちろん青くさく、コッパズカしい恋もした。一緒に映画を観た。年越しライブに出かけた。苦い失恋も味わった。それらの経験の全てが、今の私を形成している。…そうか、甥っ子がいる“今”は、そんな頃なんだ。と、30年以上前の自分を思い、彼の今を実感した。
「私はもう働いていたなぁ」短大を卒業して就職はするけれど、数年後に結婚を機に退職し専業主婦、という当時としては典型的な妻の人生設計。なのに、自ら積極的に望んだわけではないけれど、30年も働き続け、主婦業は主にダンナに任せ、当初の見込とは全く違う方向に生きてきた彼女。「楽しかったし、こっちの方が向いてたと思うけどね」と妻。…甥っ子は、きっとそんな岐路にいる。これからどんな選択をし、どんな人生を見つけるのか。最終的には無責任な伯父、伯母として、楽しみにしつつ、邪魔にならない程度にサポートしていこう。

亡き父母は、山歩きが大好きだった。夫婦2人で、時に山仲間たちと、月山、鳥海山、朝日連峰などを縦走していた。写真撮影が好きだった父は、山野草を接写し、パネルにして書斎を飾っていた。そんな父に連れられて初めて登った山は、温海岳(標高736m)という低山だった。小学生だった私は、お弁当が楽しみで付いて行ったぐらいの記憶しかない。そして中学生になり、月山(1980m)で本格的な登山を味わった。沢道を辿り、鎖場をよじ登り、雪渓を眺め、高山植物の咲き乱れるお花畑を歩いた。頂上から眼下に広がる景色を眺めた時、登りの辛さが一気に吹き飛んだ。山登りの楽しさに目覚めた。

学生時代から20代前半まで、ディンギー仲間でもあり、スキーの師匠でもあった友人と度々山に出かけた。夜行列車で松本に向かい、早朝の上高地〜涸沢〜奥穂高岳(3,190m)〜前穂〜岳沢と縦走した。トンネル内にある土合駅から階段を上り、晩秋の谷川岳(1,977m)に登った。本格的な登山にすっかりハマった。20代後半、ぴあ入社後にアウトドアのサークルに参加し、蝶が岳キャンプ、尾瀬トレッキング、八幡平縦走など、毎年数回は山に出かけた。今では笑い話だけれど、暴風雨の中の白馬縦走では遭難しかけたこともあった。そして、ある事件をきっかけに、30代前半で山から遠ざかった。

その日、登山素人のお気楽妻を誘って、丹沢に出かけた。目指すは主峰大山(1,252m)。出発が遅くなり、ヤビツ峠行きのバスは終了。手前のバス停からかなりの距離を登ることになった。それでも体力がある妻は無事に登頂。山頂では、相模湾まで見渡せる雄大な景色、コッヘルで湧かした紅茶、豚汁とおにぎりの弁当を堪能した。ところが、下りで事件は起きた。誰も歩いていない登山道を下る。山の日暮れは早い。すっかり暗くなった頃に川沿いのキャンプ場に到着。その先の広沢寺温泉がゴール。ところが、その手前に電灯のない、長く真っ暗なトンネルが。暗闇の恐怖と闘いながら、手をつなぎ、声を出して歌いながら歩く2人。「もう山はいいや」と妻。ごもっとも。
…こうして山は封印された。

それから20年が経ったある日、「ボルダリングだったらやってみようかな」という意外な妻の発言。本格的な登山も経験しているアスリート女子を誘い、ボルダリング&クライミングジム「PUMP」へ。ジムの会員でもあるスカッシュ仲間(山男)のアドバイスを受けつつ、体験クライミングに参加。クライミングシューズを履き、ボルダリングの基礎知識を学び、さっそくトライ。体重の割には腕力のある妻。するすると難なくルートを登る。「これはかなり面白いね」続いてトップロープクライミング。かなりの高さ。全く高さに恐怖心がなく、がしがしと登って行く。「楽し〜いっ♬」と満面の笑み。
「楽しかったぁ。またすぐにでもやりたいね」「山も2時間ぐらいだったら登ってもいいかな」と次々に前向きな発言をする妻。どうやら長い山行は苦痛であり、トレーニング気分でできる「スポーツ」なら楽しめるらしい。「じゃあ、暖かくなったら行きますか」と、妻を山の世界に引き込みたいアスリート女子も嬉しそう。そして、ある日書店で『山と渓谷』の最新号を手に取り、買ってみようかと提案すると、これまた意外にもあっさりとOK。ふふふ。じわじわと外堀は埋まってきた。封印が解かれる日は、果たして訪れるのか。
「今年も予約したよ」初秋の頃、浜松の義母から連絡が入る。毎年、年末に1泊2日で滞在する温泉宿。年に1度だけの、義父母の贅沢。頻繁に外食をする訳でもなく、泊まりがけの旅行をする訳でもなく、普段はこれといった贅沢もせず、こまめに電化製品のスイッチをオフにする、身の丈に合った生活をする昭和10年代生まれの2人。10年程前から、一人娘である妻と一緒に温泉に出かけることを年末の楽しみにして来た。浜松周辺の宿を選び、下見に出かけ、自分たちで予約をし、ご招待いただいてきた。一緒に出かける外食などは全て支払うようにしているが、この宿泊だけは「ウチが出すから」という義父母のことばに甘えて来た、と言うよりは、その方が親孝行だろうと思い、敢えて出してもらっていた。
はじめの頃は、御前崎だったり、焼津だったり、遠くの宿を探してロングドライブ。けれど最近は「遠くまで行くのは、もうたいへん」と仰る義母の体調を慮り、もっぱら近くの舘山寺温泉の宿となっていた。それも膝痛持ちの義母のために、ベッドがある客室限定。そこでここ数年、リニューアルオープンして全室が洋室タイプに変わった「ホテル ウェルシーズン浜名湖」が定宿となった。フローリング張りの清潔な客室、ホテル内に3ヶ所の温泉大浴場、椅子に座って食べられるダイニングと、義母の要望にぴったり。「でも今年は行けるかどうか分かんない」と弱気の発言。不眠に悩み、体調を崩し、外泊ができるかどうか迷ってもいた。リハビリにと通っていたジムも、プールには行かずお風呂だけになっているらしい。
「行けそうなの?」母を心配する妻が尋ねると、体調も少しは改善し、出かける気持になったという。ふぅ、ひと安心。「毎年」や「いつものように」ということばには、落とし穴がある。あるいは「いつかは」ということばには、もっと深く大きな穴が空いている。毎年できると思っていても、いつかできなくなる日が必ずやって来る。いつか実行しようと思っていても、突然できなくなってしまうことがある。昨春、父を亡くした私にとって、それは強く実感することだ。いつものように、出かけられることを当然と受止めてはいけない。また今年も、両親と一緒に泊まりに行ける、ということを感謝しなければ。共に毎月のように父を見舞い、父の死に際に立ち会った妻とは、互いにことばで確認しなくとも共有できている気持だ。
「今年も無事に過ごせたことに感謝して、乾杯!」食前酒の入った小さなグラスで乾杯する4人。形だけの乾杯の後、グラスは私の元に集まる。それを全て飲み干し、ビールに続き、地元の酒を味わう。次々に出される料理の皿が、私の目の前だけで渋滞する。「どれも美味しいけど、こんなに食べきれないねぇ」義母の分も食べてあげていた義父も、自分の分を持て余す。少しずつ、確実に、それも密かに、覚悟ということばに慣れて行かなければ。「お父さんが運転できなくなったら、私が代わりに運転するさ」という妻のことばに、「いやぁだ、怖いよ」と笑う義母。妻が20代の頃、その運転に怯えた過去があるらしい。「駐車とか、バック以外だったら大丈夫だよぉ。前に進むんだったら得意だよ」返す妻は屈託がない。
「無理させられないもんねぇ」宿泊者専用の空いている大浴場の湯船に浸かりながらことばを交わす。口数の少ない義父と、短い会話ながらも、ことばを引き出す数少ないチャンス。義母をリハビリに連れ出すことのたいへんさを語る義父。一人娘が上京してから30年以上、ずっと寄り添って仲良く生きてきた2人。その生活が穏やかなまま保てるように、できる限りのことをしよう。両親を亡くし、私の親は義父母2人だけになった。いつものように、また来年も、一緒にこのお風呂に入れると良いですね。義父が湯船の中で、にっこりと微笑んだ。