
初めての店を訪れるのはギャンブルだ。店の情報や評判をネットなどで事前に調べても、美味しいかどうかは人それぞれ。美味しいと評判の店でも、その店の味や雰囲気が自分たちに合うかどうかは分からない。期待して行って外れた時のダメージは大きく、期待していなかったのに当りだった場合の歓びはさらに大きい。ある週末、大当たりの店に出会った。その店があるのは、中央線の荻窪。なのに京都の食材専門の店。京都の食材を使っているのに、看板メニューはもつ焼き。それも京都風だという。店名は京都らしからぬ「もつ吉」。いったいどんな店なんだ?

丹波ワインを扱い始めた、という情報が店を選ぶ決め手だった。料理の味は事前に分からないけれど、ワインならば他の店で確かめられる。京料理の名店「用賀 本城」で味わい、すっかり気に入った丹波ワインが飲めるのならば、その点では外れない。約束の時間の少し前に店に向う。店構えは居酒屋風。大きな「もつ焼き」の提灯。上手とは言えない文字で「京都食材専門」と書かれた看板。う〜む、どうかな。躊躇いつつ店に入る。小ざっぱりとした店内。1階はゆったりとしたカウンタ席。直感が、いいぞいいぞ!と(『孤独のグルメ』の五朗さんのように)叫ぶ。
L字型カウンタの角に座り連れを待つ。おばんざいの盛合せをつまみながら、ヱビスと黒のハーフ&ハーフをぐびり。ほぉ〜、旨い。五朗さん風に独り飲みしているところに「隊長ぉ!遅くなりましたぁ」と、前職の同僚だった女子が登場。社員食堂の不味さに結成した「ランチ隊」の隊員であり、私は隊長。ランチに行って当りだった店に、夜にも突撃するという「呑んべ隊」と周囲には呼ばれていた。会社を辞めてからも年に何度か、時には妻を交えて酒を呑む仲。「隊長よりも、久しぶりに××(妻)さんと会いたかったなぁ」などと宣う。言いたいことを言い、都合の悪いことは聞こえないというキャラクター。美味しい酒を飲む相手としては、まぁ相応しい。
「京都のワインですか?良いですねぇ。ボトルで飲んじゃいましょう♬」都合の良い話ははっきりと聞こえる。「うわぁ〜っ!どれも美味しいっ!」丹波地鶏の一夜干し、京鴨とアボカドのサラダ、砂肝黒七味チャンジャ、そしてメインの京風もつ焼き。どれもが京都の食材を一ひねりした料理。確かにどれも旨い。丹波ワインともぴったり。「和食に合うワインと言うコンセプトなんです」スタッフが胸を張る。「でも、笑顔がちょっと引きつってましたね」こらこら、余計なことを。「隊長、まだ飲めますよね。料理ももうちょっと食べて良いですか」京都の酒「玉川」、湯葉の昆布〆、生麩の田楽、京漬物の盛合せがカウンタに並ぶ。…ちょっとじゃないだろう。
「美味しかったぁ。今年トップクラスの美味しさだったなぁ。隊長、もう1軒行っちゃいます?」既に飲み始めて5時間。このパターンで何度痛い目にあったことか。くわばらくわばら。終電間際の彼女を見送り、帰路に付く。タクシーでほんの15分ほどの距離に発見した、京都の食材が味わえる店。再訪の予感。
三谷幸喜の作・演出、野田秀樹が役者として出演(戯曲家でも演出家でもない“役者だけ”としての出演は極めて稀)。東京芸術劇場で上演されていた『おのれナポレオン』。現在の日本演劇界の大きな2つの才能が出会い、ぶつかり合った時、どんな化学反応を起こすのか。これは観なければの舞台。他の出演者も天海祐希、山本耕史、内野聖陽と楽しみな顔ぶれ。ある週末の午後、会場の東京芸術劇場に向った。4ヶ月間の改修工事を経て2012年9月新装なった東京芸術劇場。今回の舞台は中ホールから名称が変わったプレイハウス。ステージが客席中央に向って半島型に大きく突き出す配置。ロビーのモニターにざわつく会場の様子が映っている。開演前のワクワク感がいや増す。
主人公は野田秀樹が扮するナポレオン。三谷の芝居なのに、野田が舞台に登場した瞬間に、野田が(演劇)世界の中心になる。野田の芝居になる。役者としての野田秀樹の圧倒的な存在感。歴史ミステリーではあるものの、ナポレオンという歴史上の人物を野田秀樹その人に置き換えた三谷の芝居のようでもある。複数の時間軸と舞台転換、シンプルであることで抽象的で象徴的な舞台美術、野田のことば遊び的セリフさえないものの、三谷幸喜の芝居がぐぐっと野田秀樹に近寄った気配さえする。これが化学反応。「おのれナポレオン(L’honneur de Napoléon)」というタイトルの意味は「ナポレオンの名誉」。そこに、野田の、三谷の名誉(L’honneur)が溶け込んでいた。
翌週末、2人は再び池袋にいた。目的はまた芝居。会場は東京芸術劇場「小ホール1」から名称が変わった「シアターイースト」。3軒茶屋婦人会の第5回公演『ブライダル』。元花組芝居の篠井英介、深沢敦、元東京壱組の大谷亮介の3人芝居。毎回3人が女性に扮し、どこかに存在するような、絶対にこの世にはいないような女性たちの物語を演じる。篠井英介は花組の役どころを残すような、現代の女形の風情。大谷は女性役は無理があんでしょ!と思わせながら最後は毎回不本意ながら納得。そして、深沢敦はリアルな女性よりも女性らしく、舞台に現れる。ある種のコメディで、スリラー(笑)。お気楽夫婦は(怖いもの観たさか)毎回この舞台を楽しみにしている。
「池袋は芝居でも観に来なかったら、きっと全く来る機会のない街だなぁ」と妻。会場の前にある石田衣良の小説の舞台「ウェストゲートパーク(池袋西口公園)」を横切りながら、毎回零すことばは一緒。2009年に野田秀樹が東京芸術劇場の芸術監督になったこともあり、池袋に芝居を観に来る機会は増えた。けれど、結局その日も芝居の後に向ったのは別の街。馴染みの店がないこともある。芝居の余韻を味わうには、新宿3丁目近辺やシモキタのような、馴染みの街の空気が欲しいということでもある。その日の芝居も楽しめた。3人の女に笑い、にやつき、しみじみとした。だからこそ。芝居と、芝居の後に味わう酒(結局、酒かいっ!)は同じくらい大切なのだ。
ある日、NODA MAPからメールが届いた。「3ステージ中止となった為に、ご観劇予定であったお客様には、心よりお詫び申し上げます。天海祐希さんには、まだまだこれから長い役者人生がありますので、何卒みなさまご理解下さいませ。そして、宮沢りえさんの、わずか二日間での稽古で舞台に立つことを英断してくれた男らしさに感謝します。宮沢さんのおかげで上演できることになった残り4ステージに魂を込めて演じさせていただきます」という野田秀樹のメッセージ。
「我が辞書に不可能の文字はない」と有名なナポレオンのことばは、元は「Impossible, n’est pas français.」というフランス語だったらしい。直訳すれば「不可能ということばはフランス(人)らしくない」。それをそのままJaponaise(日本人女性)に置き換えたいような顛末だった。