
妻の故郷浜松に、彼女の従弟がひとりだけ住んでいる。お酒を飲まない妻の母方の家系。地元で歯科医を開業していた祖父の跡を継いだ3代目。ある週末、会うのは6年ぶりとなる彼を誘って「割烹 弁いち」に出掛けた。妻の帰省の際に一緒に立ち寄るこの名店は、彼らの祖父も通っていたらしい。酒を嗜まない初代は、会合や接待に利用していたという。そんな店。お気楽夫婦がお気に入りの、いつものカウンタ席の個室で、やや緊張気味に店のご主人に挨拶する従弟くん。やはり余り酒は飲まず、この店も初めてとのこと。

「でも、多少は飲めるんだよね」そう尋ねる妻は、子供の頃に一緒に遊んだにせよ、オトナになって会うことも少なくなった従弟との距離を微妙に計っている様子。「まぁ飲みますけど、何ヶ月かぶりのお酒です」敬語を使ってしまう従弟くん。従兄弟たちの中で最年長の妻の位置は、年齢の離れたお姉さん。そんな空気を解すのは私の役回り。ご主人を巻き込んでの酒談義。絶品の前菜たちを肴に「十四代純米吟醸」からスタート。小鉢のひとつひとつが食べ終えるのが惜しく、次にどれを食べようかと悩ましいほど美味しく、キレのある落着いた香りの酒と相性抜群。

続いて、鮎の真子と白子のうるか。ん〜っ、んまいっ!前菜とこの一皿だけで1升は飲める美味。合わせるのは田酒純米大吟醸斗瓶取。これまた昇天してしまいそうな組合せ。「美味しいですね。学生時代は仙台だったので、田酒は飲んでました」「それはきちんとした店に行かれてましたね」解れてきた従弟くん、ご主人とも会話を交わす。今回の企画は、酒を飲めない義父母と妻との会食だけではちょっと淋しく思っていた私のアイディア。なかなか会うきっかけがない妻と従弟を繋ぐ意味もあり、一緒に酒を飲む相手が欲しかったこともあり、そして何より地元の彼にこの店を紹介したかった。

街の味は文化。名店は街の財産。その財産を守れるのは、街のダンナ衆だけ。6年前に彼に会ったのは、地元の祭りで初子の凧を揚げた春の頃。日中には彼の法被姿を、そして夜には彼の自宅の前で初子を祝う町内の法被衆の激練りを見せてもらった。長男を抱きかかえる家族の前で挨拶をし、暗い夜道を去って行くラッパの音と提灯の列を今でも思いだす。地元に根を張る者にしか味わえない、温かい光景だった。「ところで、いくつになったんだっけ」妻の問いに「40歳になったんですよ」と従弟くん。ふぅん、どうやら良いタイミングだったたらしい。この店を訪れるのに良い年齢だ。

決してお安い店ではない。飲み過ぎて帰りの勘定を気にするようではもちろん楽しめない。けれど、経済的な面だけではなく、この店を本当に楽しむには年齢を重ねる必要がある。敷居が高いと言っているのではなく、この店の味と酒を楽しむには場数が必要だ。それも、場数を重ねた末の生半可な知識をご主人や連れに披露するのではなく、ご主人に全て委ね楽しむことが肝要。何度か店に伺い、自分の好みが分かっていただけたら後はお任せ。今度は何を薦めていただけるのか。毎回解説いただく、その酒が持つ物語と共に楽しみに待つだけ。
「天然の茸と赤ムツのツミレ鍋」天然茸の香りと歯応え、ノドクロの出汁にくらくら。「焼く前にうるかを塗って焼いた落ち鮎の一夜干し」過ぎ行く秋がふぅわりと香る。そんな一皿毎に合わせる酒を選んでもらえる幸福。それをワカモノが味わってはいけない。デビューは40歳を超えてから。割烹 弁いちは、R40指定。
「確かに場数は踏んできたね」妻が呟く。酒を飲まない妻も同じだけの場数は経験している。「それにしても、今回は飲んだねぇ」明細書には7種の酒。また良い経験を重ねたということで。
■食いしん坊夫婦の御用達 「割烹 弁いち」(これまでの記事紹介)

夏の終わりに訪ねた店があった。ちょっと変わった店名。てとら。日本の海岸風景を破壊すると作家の椎名誠が嘆く、あのテトラポッドのてとら。テトラポッドとは、海岸の砂の流出を防ぐことなどを目的に、消波ブロックとして使われている円錐状の4つ足のコンクリートの塊。一方で複雑に絡み合って設置されるテトラポッドが魚礁の役割を果たし、格好の釣り場となっているところも多い。そこで「さかなの寄り処 てとら」という店名。この店は、お気に入りの中華料理店「SILIN火龍園」の総支配人だった根本さんから、新規OPENのご案内をいただいていた。店主のジローさんは、やはりSILINで顔馴染みだった方。彼らは同時期に店を辞め、それぞれ独立を目指し準備をしてきた。そして一足先に開店を果たしたジローさんの店を根本さんと一緒に訪ねた。
京王線桜上水駅の北口から2分ほど。地味な駅の、地味な路地に佇む小さな店。店の前には大きなテトラポッド。暖簾の向こうの引き戸を開けると、カウンタだけのこぢんまりとした店の全容が目に入る。長身で笑顔のジローさんが迎えてくれる。根本さんも近々ご結婚されるお相手を伴い来店。さっそく4人で乾杯。話を伺うと根本さんとジローさんは15年以上のお付き合い。料理人だったジローさんを火龍園に引っ張り、フロアのサービスを教えたのが根本さんだという。世田谷の火龍園で初めてお会いした際のジローさんの緊張した面持ちと違い、カウンタの彼は穏やかに笑っている。接客サービスを仕込まれた料理人の作る料理は目にも美味しく、釣りが大好きな店主の確かな目で選ばれた旬の魚たちは、新鮮で幸せな味。実に旨い。そして小さな店としては驚くほど充実した酒も。

「僕の店もようやく決まったんですよ」根本さんが嬉しそうに語る。親交の深い料理長とタッグを組んで、気軽に食べて飲める中華の店を世田谷線の松陰神社前に出すという。むむっ!それは嬉しい。馴染みのある、訪問しやすい街を選んでいただいた。そして相手を心地よくさせる笑顔と笑い声の持ち主である(近未来の)奥様が良い感じ。彼女もフロア担当として働くという。それは間違いなく良い店になるに違いない。そしてこの店も。根本さんのきめ細やかで柔らかな接客は「てとら」店主のジローさんに受け継がれ、なんとも居心地の良い空間になっている。そして勿論、根本さんがフロアにいる店は気遣いと活気のある良い店になるに違いない。今から開店が楽しみだ。
翌週、さっそくご近所の友人夫妻を伴い「てとら」再訪問。酒を飲まない友人夫妻、飲んべが同行すればこんな店も訪問し易い。同じく酒が飲めないお気楽妻も同様に、飲めないけれど酒の肴は大好き。「う~ん、魚が美味しいねぇ」実家が魚屋のご近所の友人(妻)。彼女のお墨付きであれば間違いない。穏やかで和やかな空気が流れる店内で、思わず笑顔の4人。カウンタの中では店主のジローさんの笑顔も。そこにカップルが来店。ことばを交わす内にジローさんの築地の仕入仲間の同業者であり、その日が初めての来店であることを知る。広がる笑顔の輪。すっかり常連さん気分で和むお気楽夫婦。満足、満腹と店を出る。店主とスタッフに見送られて店を出てしばらくすると、スタッフがダッシュで追いかけて来る。「IGAさぁ~ん、お忘れ物です!」ありがとう、ちょっと酔い過ぎか。
「また来なくちゃね」妻もすっかりお気に入り。ご近所の友人夫妻からも「美味しかったし、居心地が良かった」との感想メールが届いた。私はと言えば、ふっと、あのカウンタでひとり(お気楽妻同行でも可)冷や酒を飲み、美味しい魚をつまむ自分の姿が浮かぶことがある。てとら、行きたいなぁ…そんな感想と共に。テトラポッドに寄りつく魚のように、飲んべが寄り付く店。そんな居心地の良い場所をまたご近所に増やしてしまった。ジローさん、またお邪魔します!
■食いしん坊夫婦の御用達 「魚の寄り処 てとら」 *店の詳細などをご紹介
夏の休暇に毎年必ず持参する本がある。ロバート・B・パーカーのスペンサーシリーズ。2011年、香港に持って行ったのは『盗まれた貴婦人』。シリーズ38作め。著者のロバート・B・パーカーは2010年1月没。昨夏に読み終えた37作めの『プロフェッショナル』以降、シリーズ2作品が本国アメリカで刊行され、日本では最終作となる『Sixkill』を残すだけとなった。最新作『盗まれた貴婦人』はシリーズ初期の頃を思わせる疾走感がある。登場人物が最近の作品より絞り込まれている分(?)心地良いテンポでストーリーが進む。第2次世界大戦時のエピソードまで広がるサスペンスのスケールも大きく、破綻することもない。実に読み応えがある秀作。そして相変わらずのスペンサー節。パートナーのスーザンとの関係も、愛犬パールの存在も、スペンサーが愛する酒や料理との距離感も、このシリーズを味わえるのがあと僅かだと分かっているから、ページ毎に愛おしい。最終作が待ち遠しく、同時にとてつもなく淋しい。複雑な気持が交錯する。
この夏、そんな傷心の私を救う男が現れた。職業はスペンサーと同様の探偵。けれど、スペンサーのように私立探偵という“正式な”職業ではない。ススキノの便利屋を名乗っているだけ。それどころか氏名は明かされておらず、作中では「俺」で通されている。警察官出身のスペンサーと違い、犯罪スレスレの捜査をするのではなく、犯罪を自覚的に犯してもいる。作品の中で自ら列挙しているように、賭博(「俺」の主な収入源)、大麻取締法違反(仲間たちと山中で大麻草を栽培をしている!)、脅迫、威力業務妨害、窃盗、器物破損などを(自らは後ろめたいことはしていないと言い切るが)。そしてスペンサーはボストンに住み、「俺」は札幌を舞台に活躍する。いずれも首都から離れた北の街。その街に主人公の2人それぞれがしっかりと立っている。そんな2人の共通点も多い。
ハードボイルドでありながら、主人公の口数が多い。それもへらず口。幅広く適度に深い知識をセリフに加える。小説の一節を諳んじたり、気の利いた(と本人は思っている)譬え話を発したりもする。特に「俺」は外見も行動も一歩間違えるとタダのチンピラなのに、インテリジェンスが零れてしまう。種類も方向性も大きく異なるが、正義感溢れるタフガイでもある。頼れる相棒や協力者がいる。それも時には敵の立場になるであろうギャングやヤクザの世界にも。そして酒が好き。特に「俺」の酒の飲み方は半端じゃない。朝食は、住まいの階下にある店のモーニングセットにスーパーニッカのストレート。昼はタンカレー2杯だっだりする。夜は何軒かハシゴをするのは当たり前で、何軒目からかは確実に記憶がないのも毎回。当然だ。明らかに飲み過ぎだし、羨ましいほど飲み続けることができる。けれどアル中ではないと自覚し、事件解決のためには飲まずにいることもできる。理想的な(どこが?)酒飲みだ。
そして、実に愛すべき男なのだ。愛される男なのだ。
東直己のデビュー作『探偵はバーにいる』をスペンサーと共に今夏のヴァカンスに持参した。「俺」はスペンサーの後継者として付き合えるかどうかを確かめるために。そして、ハマった。帰国後、大人買い。文庫本で買える彼の作品を全て手に入れた。シリーズ第2作『バーにかかってきた電話』も、あっと言う間に読了。まずい!買ってきた作品全てを一気に読んでしまいそうだ(汗)この秋公開される映画『探偵はBARにいる』も思わず観てしまいそうになっている。この映画、タイトル名は第1作を基にし、原作は第2作の『バーにかかってきた電話』というややこしさ。けれど、映画化第1作の選択としては正解。映像向きのストーリー展開。「俺」のキャスティングも、これしかない!という北海道が生んだスター(笑)大泉洋。相棒の北大大学院のオーバードクター高田(このキャラクター設定が良い!)を演じる松田龍平も楽しみだ。やはり観てしまいそうだ。この映画。
「ふぅ〜ん、人がいっぱい死ぬの?面白いの?」サスペンス及びアクション系の翻訳小説の愛読者である妻が尋ねる。彼女がハマることは間違いない。来年の夏にはきっとススキノ探偵シリーズをヴァカンスに持参することになることになる。スペンサーの後継として。
*夏休みの友 北の国の探偵を連れて