新友、遠方より来たり「萬来軒 & Bar808」

Szechuan cuisineる週末、ご近所の中華料理店で2人のスカッシュ仲間と食事をした後に、お気楽夫婦宅に立ち寄るという企画を立てていた。その内の1人、拙宅への訪問を熱望されていたパン教室の先生から「四川料理とBar808、楽しみにしてま〜す♡」とメールが来た翌日、「残念ながら伺えなく…なりました(涙)」と連絡があった。長いメールでの説明によると、上京中である故郷長野に住む友人が、急に予定を変更して彼女の家を訪問することになった上に、宿泊したいと連絡があったという。残念な気持をどこにぶつけようか!とまで書かれた文面を眺めながら暫し呆然。気を取り直して返信。彼女さえ良かったら、一緒に食事をしてウチにもぜひ来たらどうかと提案。すると「ありがとうございます!さっそく彼女に伝えたところ、間髪入れずに行きたい!とのことでした」と返信。恐縮する彼女に、予定が重なったのも何かの縁だし、楽しみにしていると伝えたところ「でも、皆さん後悔されないか心配です。彼女はある部分、伯爵夫人なので…」と気になるコメント。う〜む。

Tangtang Mien爵夫人を囲む会」と急遽名称を変更した食事会。もう1人の参加メンバー、役員秘書からも大歓迎とのメッセージが届いた。「とは言え、アウェーには弱く人見知りしちゃうかも」との情報を得て、迎えた伯爵夫人。緊張気味で、ぎこちない挨拶かなと思ったのもほんの一瞬。あっという間に場に溶け込んだ。そして、5分後にはIGAIGAと呼ばれていた私。どこが、誰が、いったいAWAYに弱いんだ!と突っ込む。料理はと言えば、相変わらずの絶品四川の辛味が夏の暑さを吹き飛ばす。「これ、とっても美味しいねぇ♬何?何ていう料理?」満面の笑みで萬来軒名物の四川水餃子を頬張るパン教室の先生。急な設定変更を恐縮し、伯爵夫人よりも緊張気味だった彼女もすっかりリラックス。芝麻醤の香りが効いた水餃子が気に入った様子。伯爵夫人はと言えば、いつの間にか接客担当の萬来軒のおばちゃんとも仲良く会話を交わしている。そして料理の合間に店に出て来たおじちゃんに彼女を紹介すると、「長野から来てくれたんなら、松本に四川料理やってる友だちがいるから、紹介するよ」とすっかり意気投合。

JoshikaiMohayaのおじちゃんに名刺もらっちゃった♬」とはしゃぐ伯爵夫人を引き連れ、Bar808へ向う。おじちゃんは名刺持ってたんだ!と驚くお気楽夫婦。「担々麺も美味しかったねぇ♡」とパン教室の先生はご機嫌。彼女たちと同年代の役員秘書も楽しそうだ。会場をお気楽夫婦宅に移しても途切れない会話と笑顔。普段は口数の少ない妻も、リラックスして会話を楽しんでいる模様。萬来軒でのビール、瓶出し紹興酒に続き、友人たちが持参してくれたワインをいただく。初めて会うメンバーにも関わらず、何の衒いも気後れもなく、淡々と、全く変わることなく飲み続ける伯爵夫人。聞けば、スカッシュ仲間と同様に地元長野でパン教室の先生をしており、今回の上京はセミナーに参加することが目的だったらしい。繊細で豪快な彼女は、3児の母でもあるという。「次は焼酎が良いかなぁ」と芋焼酎を酌み交わし、冷凍庫でキンキンに凍らせてあったズブロッカで何度目かの乾杯。酒豪という呼称は彼女のためにあるような飲みっぷり。

Cooool!カッシュを始めて10年余り。仕事や会社に全く関係なく、スカッシュを通じて知り合う、特に女性の友人たちが増え続けてきた。結婚していたり、していなかったり。子供がいたり、いなかったり。仕事をしていたり、いなかったり。スカッシュとの関わりの濃淡もある。決して彼女たちの価値観は一様ではなく、嗜好も全く同じとは言えない。けれど、スポーツがきっかけだったこともあり、生活スタイルが近いということもあるだろう。いずれも気の置けない仲間たち。そして、こんな偶然で知り合う仲間もいる。年齢を重ねる毎に、新しい友人と出会えることが素直に嬉しい。「今度は長野で飲みましょう!」「うんうん、行きたいねぇ」「温泉付きの飲み会?良いかも♬」夜も更け、さらに盛り上がる女子会の様相を呈すBar808。おばちゃんの血が混じっている私は、いつもの様に何の違和感もなく場に馴染む。

しかったぁ〜♡」「ごちそうさまでした♬」それぞれにハグを交わしながら別れを惜しむ。勢い余ってお姫様だっこまでされる妻。軽々と妻を抱き上げる伯爵夫人。愉しい夜だった。美味しい酒だった。新幹線に乗って突然やって来た、新しい友人もできた。嬉しい新たな出会いだ。

姫様だっこっとか書いてるけど、実は覚えてないでしょ?」妻の一言。む、おっしゃる通り。撮影したのは私のはずなのに、記憶がない。けれど、デジカメのデータには4枚の連写で画像データが残っている。夢ではないようだ。不覚。

旅という病、旅の適齢期『旅する力 深夜特急ノート』沢木耕太郎

MidnightExpressNoteの文学と言えば?と聞かれると真っ先に思い浮かべる作品がある。沢木耕太郎の『深夜特急』だ。第1便から最終巻の第3便まで、新潮文庫では分冊されて6巻からなる魅惑的な旅の物語だ。街に溢れるエネルギーをストレートに伝える文体の疾走感。街に住む人々の生活の中に深く沈みながらも、旅人としての冷めた視点や、異文化への苛立、憧れ、怖れなどの複雑な心情が沸き立ってくるエピソードの数々。読む者を旅に誘うだけではなく、実際に旅立たせてしまうほどの魅力に溢れていた。デリーからロンドンまで、乗り合いバスで行くという(本人曰く“ささやかな”)主題を持って、作者の沢木耕太郎が実際に旅立ったのは1970年代前半。そして第1便が刊行されたのが1986年。第3便が1992年。そして2008年(文庫版は2011年5月)、深夜特急ノートという副題が付いた『旅する力』が刊行された。

とは何か。その問いに対する答えは無数にあるだろう。…そんな書き出しに始まる沢木の文章は相変わらず魅力的だ。沢木は旅は病だという。そして、初めての旅として小学生の頃にマツザカヤまで独りで電車に乗って行ったこと、中学生の頃に大島に旅したエピソードなどが綴られる。…自分にとって初めての旅はなんだっただろう。文庫本を閉じ、しばし自らの記憶を辿る。すると、旅ということばから広がるいろいろな記憶が蘇る。小学生の頃、ようやく乗れた補助輪なしの自転車で4Kmほど離れた父親の生家に向ったこと。仲良しだった友だちが転校した街まで、何人かの友人たちと1時間ほど電車に乗って会いに出掛けたこと。中学時代に友人と一緒に初めて泊まりがけで行ったキャンプ。高校時代にアルバイトで貯めた小遣いで、独り自転車で出掛けた1週間ほどのユースホステル巡り。未知の街への不安と期待、独りで向う道筋がいつもと違う景色に見える不思議で新鮮な感覚。その頃には既に私も旅という病に罹っていたのかもしれない。

MidnightExpress木は言う。旅には経験がなくても経験があり過ぎてもダメな旅の適齢期がある、のだと言う。沢木耕太郎がユーラシアへの旅に出たのが26歳。若いということは、ものを知らないこと。例えば、若い頃には空腹を充たすことが優先して美味しいと感じていたものが、美味しいモノを求めて食べる現在だったら果たして美味しいと感じるだろうか。沢木にとってその旅の適齢期が26歳だったと振り返る。『旅する力』には、その旅に出ることになるまでのエピソード、その後『深夜特急』を出版することになる経緯などが描かれる。けれど、それは決して『深夜特急』の楽屋話などで終わってはいない。旅することの魅力、訪れる街の引力、旅が人にもたらすエネルギー、旅が人の何かを変えてしまう“力”を持つことを綴る。タイトル通り、旅する力の意味、そして何よりも旅の力が描かれている。

にとって、その旅の適齢期は20歳だった。大学入学前、フランス語を学ぶためにアテネフランセに通い、奨学金とアルバイトで貯めた資金で大学入学早々にフランスを旅した。まだヨーロッパに向うのにシベリア鉄道経由というルートが、貧乏学生の選択肢としてあった時代。南回りの格安航空券。香港、バンコク、モスクワを経由し、コペンハーゲンで飛行機を乗り換えた長い行程だった。パリの語学学校に通うという名目での短期留学。アリアンス・フランセーズという学校に行ったのは1日だけ。パリの街を歩き回り、美術館を巡り、カフェで本を読み、公園でクロック・ムッシュを齧った。マッターホルンが見たくて夜行列車でツェルマットに向った。無事にその山容を眺められたお祝いにと初めてチーズフォンデュを食べた冬の日。モン・サン・ミッシェルを見るためにブルターニュの港町サン・マロに立ち寄り、ムール貝と生ガキを大量に食べたがために(?)お腹を壊して、パリに帰還してしまった。1970年代の終わり、沢木耕太郎がロンドンを目指した数年後のことだ。

気楽夫婦にとって、その旅の適齢期?は1995年だった。返還前の香港。残念ながら九龍城砦は前年に取り壊されていた。けれど、啓徳空港に着陸するために香港の摩天楼を掠めて飛ぶスリルは味わうことができた。香港初日の夜、ディープな空気が淀む灣仔(ワンチャイ)の街と、英語が通じない場末の中華料理店の味に虜になった。以降、毎年のように出掛ける特別な街になった。そしてこの夏、何度目かの香港に出掛ける。妻は「訪れるべき中華料理店」のリストを嬉々として作成している。到底1週間の滞在では行けるはずもない長いリストだ。

木耕太郎がインドに行く途中で立ち寄り、魅せられた香港とはすっかり違う街。けれど、お気楽な2人にとって新たな魅力も纏ってもいる街でもある。さあ、ようやく松葉杖も持たず、けれどスカッシュラケットも持つこともない、2人のヴァカンスはもうすぐだ。

*時代を超える紀行文学です♬おススメ♡

杖よさらば!「二足歩行の喜び」

Matsuba2ハビリしっかりやっているようですね、と褒められた♡」妻からそんなメールが届いた。術後7週間目の診察結果を知らせる内容。初めて付き添いなしで病院に向かったその日、担当医のコメントがよほど嬉しかったらしく、妻がほとんど使わない絵文字がメールの文末に踊っていた。「杖を外しても良いけど、念のために後2週間だけ1本使うことになりました」そう続くメールは、妻の嬉しそうな顔が目に浮かぶ内容だった。6月初旬にアキレス腱を断裂、すぐに入院して手術、そして松葉杖をついて退院の翌日から通勤。初日は全行程タクシー。その後は徐々に電車を使う区間を延ばしながら、タクシーを使う距離を短縮して来た。それでも会社までの長く緩やかな坂道を歩くのは困難で、最寄り駅からはタクシーを使わなければ通えなかった。

Matsuba宅から最寄り駅までの距離は短いけれど、駅にエレベータがないために時間を掛けて階段を使う。途中駅のエレベータの有無などを調べながら、最善のルートを何パターンも試した。怪我をした足が地面に付けない頃はエスカレータにも乗れなかった。朝夕の混雑する時間帯を避け、エスコートしながら一緒に電車に乗った。それでも混み合う車内では乗り降りが困難なため、空いている各駅停車を待った。松葉杖で両手が塞がるからショルダーバッグしか持てない。雨の日は傘がさせない。高いヒールの靴は履けないため、低いヒールの靴を何足か買った。足を下げっ放しにすると、左脚だけが象の脚のように浮腫んだ。松葉杖の持ち手の部分には包帯を何重にも巻いたのに、手にはマメができた。芝居を観に行ったり、外食の際には松葉杖の置き場所に困った。

Araiんな日々がようやく終わろうとしている。松葉杖よさらば!さっそく妻に返信。お祝いにウナギでも食べに行こうか!「ありがとう!ウナギ賛成!」さっそく予約して向ったのは2人が住む街にある(唯一接待で使えるお座敷がある)鰻専門店。土用丑の日が近かったこともあり店は満席らしい。4人用のテーブルに案内され、向かい合った斜の席に座る。妻の左脚は向かいの席の椅子の上。怪我をしてからの2人の外食は、左脚を上げておく工夫をすることから始まる。象の脚にならないようにするために大切な儀式だ。そしてお茶とビールで、妻の順調な快復に乾杯。「アスリート並みの快復だよね」妻が自画自賛。担当医の見立てでは、断裂したアキレス腱の周囲にも筋繊維が発達し始めており、プール歩行はどんどんやっても良いとのこと。「これでスポーツクラブにも行けるね!」妻の笑顔の一番の理由はそれ。

Unachaに言わせると「スカッシュができないのは、今はできるとは思えないからストレスは溜まらないんだけど、身体を動かせないっていうのがつまらない」らしい。松葉杖を使わずに二足歩行ができるだけでも嬉しく、ましてスポーツクラブでプールに入っても良いと言うコメントは神の啓示にも近い。「さっそく今週末に行くよ!」良いだろう。彼女は辛抱強く、慎重に、リハビリ生活を送ってきた。まぁ、切れたモノは仕方ない!と明るく現実をそのまま受け止め、何かを恨んだり、くさったりせずに、松葉杖を懸命に操って歩いてきた。こんな時には人となりが現れる。自分だったらどうだったろうと想像する。彼女の淡々とした、達観したかのような生活は自分にできただろうか。松葉杖と共に過ごした2ヶ月、いろんなことが見えることもある。そして、ようやく以前の日常が戻ってきつつある。

ョギングとエアロバイクは2週間後にはやって良いらしいよ♬」マグロは泳いでいないと呼吸ができない。妻も呼吸することがヘタで、運動をすることで正常な呼吸を促し血液を循環させる。妻はマグロな女。「スカッシュは術後3ヶ月からOKだって」担当医はまだ分かっていないらしい。妻は抑えながらリハビリを促さないと突っ走る。なかなか表には出さないが、図に乗ると無謀な行動に出る。でも、8月の夏休みにはラケット持っていかないよ。そう告げると「そうだね」と呟いた。自分を知り、オトナになった…のかもしれない。

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SINCE 1.May 2005