ギリシア神話におけるアキレウス(Achilleus)は、トロイア戦争で活躍した不死身の戦士。誕生の際に冥府の川に浸けられて、全身が不死となった。しかし、母ティティスがアキレウスの両足のかかとを持ち川に浸けたため、その部分だけが水に浸からず不死とならなかった。そして最期は弱点のかかとを弓で射られ命を落とす。そのエピソードから名が付いたのが、飛んだり走ったりする際に重要な機能を果たす人体で最大の腱である、アキレス腱。連日の深夜残業をものともせず、魔女か不死身かと思っていた妻もアキレス腱は弱点だった。その妻の会社は、東日本大震災で新年度の新体制のスタートが遅れていた。例年の6月なら休んでいたかもしれない。けれど、新年度スタートにあたる今年の6月は、全く出社しない訳にはいかないタイミングだった。
退院の翌日、妻は会社に行くと主張した。お気楽夫婦の自宅は駅から歩いて2分。とは言え慣れない松葉杖で歩くには永遠とも思える距離。駅にはエレベータもなく、階段を下り、改札を通り、階段を上ってようやくホーム。ましてや混雑する電車には乗れそうもない。選択肢はタクシーしかない。同乗して会社に向った。会社に到着すると上司や部下が揃ってお出迎え。事前のメールのやり取りで「レッドカーペット敷いて待ってます!」「分かった♬ドレスで会社に行くよ!」などというやり取りがあった。会社にはバリアはなさそうだ。一安心。夕刻、帰路もお迎え。妻の会社からエレベータなどが整備され乗換の必要がない途中駅までタクシーに乗る。そして最短距離でホームに向える場所で降り、空いている各駅停車の電車を待つ。
松葉杖は最強のアイコン。怪我してます!という主張が判りやすく、ギプスを巻いた脚も目立つから席を譲ってもらえる可能性は高い。けれど、混んでいる電車では他人の陰になってしまうことがある。そこで同伴の私が主張する。空いた席を見つけて「あぁ、ここに座らせてもらおう!」と不自然ではない程度に大きな声を出す。すると、その声に視線が集まり最強のアイコンが威力を発揮する。次は、シルバーシートに座った妻の脚を、前に立ちながら両足でガード。そうとは知らずに他の乗降客の足がぶつかったら再断裂のリスクがある。そして、降りる際には乗降口まで健常者の倍程度のスペースが必要。混んでいる車内では降りるにも神経を使う。そして階段。雨。6月の通勤はかなりハード。家に2人帰り着くと「ふぅ〜っ!」と安堵の溜息を付く。
もちろんわが家に帰った安心感もある。そしてそれ以上に安心する理由は、最強の便利ツールがあるから。キャスター付きのスツール。家の中でも松葉杖で移動していたため、腕と脇の下が痛いと泣いていた妻が通販で購入した優れモノ。これが、実にらくちん。床面がフラットな自宅内を座って移動することができる。座る際に座面に手を置いてもずれ動かないから危険性が少ない。フローリングの床材が傷だらけになるのは、この際目をつぶろう。日頃から家事は私の分担割合が多く、妻の分までほぼ全ての家事を担当することは問題ない。エコバックを手に買物することも気にならない。ビニール袋を被せ、水が入らないようにしながら浴びるシャワーをサポートすることも苦にならない。けれど、ちょっとした移動に困っていた妻を何とかしたかった。そして、アキレスは新たな脚を手に入れた。
「つ〜〜っと♬」お気楽妻が楽しそうに室内を移動する。早朝から自宅で仕事をしていても、夜遅くまでパソコンに向っていても「快適だぁ〜っ♡」という環境らしい。リビングでBGMを聴きながらの仕事。「コーヒー飲みたいなぁ」と言えばコーヒーが淹れられ、「お腹空いたねぇ」と言えば食事が供される。それはそれは快適な自宅勤務でしょうとも。けれど、妻の気配を感じながら、LED ZEPPELINが流れる小さな書斎で、仕事をするのも悪くない。John Bonhamのドラムス、Robert Plant のヴォーカル。♪あぁ〜あぁ、あぁ〜あぁ♬あぁ〜あぁ、あぁ〜あぁ♬Achilles Last Stand ♫それが妻の介護のテーマ曲。
良く言えば鷹揚な、あるいは剛胆な、有り体に表現すればノリの良い先生だった。「確かに手術する方法と、しないという選択があります。もちろんどちらにもリスクはある。再断裂の可能性は手術の方が若干低くなるかな」スカッシュの試合中にアキレス腱を断裂。救急車で運ばれ、応急措置の後に自宅に戻り、妻は懸命にアキレス腱の治療方法についてネットで調べていた。「手術を選びます」迷いはなかった。それは何よりもコートに戻りたいため。スカッシュをやりたいがため。「だったら明日ひとつ空きができたんで、手術は明日。あとは病室が空いてるかどうかだなぁ」調べるとその日の朝に退院した人が2人いたらしく、空きがあるとのこと。「断裂した後の手術は早い方が良いからね。すぐに手術できるって、珍しいことだよ。じゃあ、さっそく入院手続きをしてください」受付から3時間待って、診察は僅か数分。そして、その日のうちの入院と翌日の手術が決まった。
「入院手続きと検査がありますから、この順路で回ってください」整形外科のスタッフから指示を受ける。病院内で食事はできるか尋ねると「あぁ、だったら検査の前に食べた方が良いわね。余計に歩かなくて済むから、じゃあここを真っすぐ行って…」担当医のキャラは周囲に影響するのか、命に直ちに関わる症例の少ない整形外科の特性なのか、とてもフランク。外科、泌尿器科、産婦人科など診療科ごとに待合室にいる患者たちの醸す雰囲気が違う。慣れない松葉杖をぎこちなく操りながら妻と病院の食堂に向う。さぁて、これからどんな作戦で臨もうか。「まず、入院に必要なものをメモするね」妻は初めての入院、初めての手術。なのに臆することなく、いつもの通りぱきぱきと物事を処理して行く。「会社からパソコン持ってこられると良いんだけどねぇ」おいおい、病室で仕事かい。「個室だったら周りを気にせず仕事できるんだけどなぁ」確かに4人部屋しか空いていなかったけれど、私が気にしてるのはそんなことではなく…。「着るものはスポーツウェアの方が良いね。パジャマを兼ねられるし、動きやすいし。なんだか合宿みたいだね♬」ん?もしかして、ちょっと楽しんでいやしませんか。
レントゲン、血液検査などを終え、入院手続きに向う。病室は明るく大きな窓がある。「窓際にしましたけど、入口に近い方が良いですか」担当のナースの説明に「入口の近くにしてください」と妻。「窓が明るいと、朝早く目が覚めちゃうからね」と説明し、「こっちの方が仕事しやすいかな」と呟く。あくまで病室はサテライトオフィスと認識しているらしい。妻が書いた入院生活に必要なモノ一覧の1行目には、パソコンと記してある。やれやれ。自宅に戻り、入院備品一式を揃え、再び妻の待つ病院に向う。「手術は明日の午前中の3番目らしいよ。と言っても昼過ぎになるらしいけど」夕食までにシャワーを済ませることになる。アキレス腱を切った左脚を大きなビニール袋で被い、濡らさないようにガムテープで巻く。退院しても同様のやり方でシャワーだけ許されるらしい。2人は素人のケガ人と介護人。慣れずに危なっかしいながらもシャワーを済ませる。ふぅ。こんな生活が毎日続くのだ。
手術の当日、昼過ぎまでに自宅で仕事を済ませ病院に向う。初めての点滴を受けながらベッドの上でパソコンに向う妻。「ここ静かだし、電話も入らないから仕事が進むススム!」満足そうに妻が微笑む。「昨日なんて11時過ぎまで仕事できたし」突っ込む気にもならず、手術の順番を待つ。「お待たせしましたぁ。さぁ行きましょう」やはりノリの良い当直ナースが妻を手際良く手術室に運ぶ。長い廊下の突き当たりに明るい手術室。「はい、ご主人はここまでです」「じゃあね」と妻。頑張ってと言うと「頑張るのは先生だから」と軽く答える妻。まぁ、そりゃそうだけどね。妻が手術室の扉の向こうに消え、病室に戻り待機。本を読みながらも落着かない。「はい、終わりましたので、いらしてください」再び向う手術室。「ご家族の方はこちらでお待ちいただいて、先生から説明があります」ん、例のやつだ。手術は成功ですが、残念ながらガン細胞が全身に…とか言われて愕然とするヤツだ。
そこにすたすたと先生が現れる。「あぁ、手術は上手く行きました。本人も退院したいと言ってらしたから、明日退院なさっても良いですよ」え?昨日入院して、手術した翌日に退院ですか。良いんかい。本人も、って部分麻酔の患者とそんな会話をしたんかいっ。「うん、明日会社に行くよ。麻酔が切れると痛みがあるっていうから痛み止めの薬はもらったし」そういう問題か?…こうして僅か2泊3日の入院生活が終わり、慌ただしい介護と痛勤の日々が始まった。
最悪のコンディションのチームだった。前週に自転車ですっ転んで腕と足を痛めたエース。肘と手首の炎症が治らない上に、めっきり体力のなくなった監督兼プレーヤーの私。恋に悩み1ヶ月近く練習をしていない役員秘書。そして、ハードな仕事が続き腱鞘炎でラケットが持てず、3週間もコートに入っていなかった妻。そんな4人がチームを組んで、スカッシュの大会に参戦した。試合は3人のリレー方式による団体戦。1番手のプレーヤーはどちらかが11点を取るまで、ポイントを引き継いだ2番手のプレーヤーは合計22点を取るまで、そしてエースの3番手が33点を取れば勝利!というルール。男女混合で、2番手だけは必ず女性が出場すること以外はメンバー選出は自由。各チームのメンバーは、プロ選手であるコーチから初心者までレベルはバラバラ。女性との対戦に力を抜き過ぎて負けてしまいそうになる男性のプレーヤーがいたり、2番手までの得点に圧倒的な差があってもエースが巻き返したり、各チームの応援の拍手合戦があったり、お気楽で楽しい大会だ。
お気楽夫婦を含めた同じクラブの仲間4人は、順調に負け続けていた。同じメンバーで何度も大会に出場し、上位入賞を果たしたこともあるチームなのだけれど、その日は全員が最悪の状態。3戦目でようやく初勝利。腕痛の妻は1戦だけ出場したものの、ラケットを持つのがやっとの状態。予選リーグでは1勝2敗のチームが3組あり、得失点差で見事に最下位!成績下位のトーナメントに堂々の進出。けれど、トーナメント1回戦ではその日初めての快勝。準決勝は予選で対戦したチームが相手。エースを温存され予選では勝利したものの、圧倒的な実力を持つ相手チームのエースが参戦すれば、負傷中のエースで対戦する我がチームの分は悪い。同じクラブの他のメンバーで構成した2チームは順調に勝ち続けているし、戦績は彼らに任せよう。ウチのチームは楽しもう!と妻にもう1戦だけ出場させることを決めた。その監督(私)の判断が悲劇を招いた。
1番手の監督兼プレーヤーは手首が痛み始め、ラケットが上がらない。ぎりぎりで勝利し2番手の妻にリレー。すると、腕の痛みを感じさせない鋭いクロスがコートのコーナーに突き刺さる。ストレートショットがきれいに決まる。あれ?絶好調。フットワークも良く、小気味良く動いている。相手にほとんど得点を許さず21点目を取り、ゲームポイント。良しっ!この点差なら、もしかしたらエース勝負でも勝てるかもしれない。ところが、コートの中央に戻ると、一瞬体勢を崩した妻。動けない。何が起ったか分からないという目で後ろを振り返る。慌ててコートに入って様子を聞くと「後ろから、踵をがーんと蹴っ飛ばされたと思った。やっちゃったかもしれない」と冷静に呟く。動くな!と妻に伝え、スタッフのコーチを呼ぶ。妻のかかとを触ると「あぁ、僕はプロじゃないので断言できないですが、アキレス腱がないですね。切れていると思います。救急車を呼びましょう」え?アキレス腱がない?そんなことばに、まだ現実感がない。皆で妻をコートの外に運ぶ。クラブの仲間が集まり心配そうに話しかける。幸いなことに痛みはないらしい。
「仕事溜まってるんだよねぇ。困ったなぁ。明日、会社どうしようかなぁ」焦っているのか、呑気なのか分からない発言を続ける妻。「完治まで時間はかかると思います。頑張ってください」スタッフが不吉なことばを告げる。慌てて自分の荷物をまとめ、妻の荷物はチームメイトの役員秘書にお願いする。「分かった。私も一緒に付いてくよ」ありがとうと言いながら、冷や汗でびっしょりの自分に気付く。そして救急隊が到着。担架に乗せられ救急車に運び込まれる。近くの救急病院で診察。やはりアキレス腱断裂との診断。看護士に注意事項の説明を受ける。搬送先の病院に入院する必要はないという。ほっとすると同時に、急に現実感がやってくる。できないこと、やってはいけないことは予想以上に多いことが分かる。応急処置を受け左足を包帯で巻かれた妻の顔が苦々しいのは、痛みのせいではなく、仕事のことを考えているかららしい。「どちらでも良いって先生は言ってたけど、手術の方が再発が少ないし、手術した方が良いわよ」こっそりアドバイスする気さくな看護士。やっぱり手術ですか。痛そうだなと言いそうになったことばを呑み込む。
松葉杖を借り、タクシーに乗り込み、遠路はるばる自宅に向う。車中でスタッフにお礼の電話、クラブの仲間に状況報告のメールを送る。さぁて、妻にとっての療養生活、私にとっての介護生活が始まった。