Archive for 7 月 24th, 2011

それでも、ぴあ的生活は続く「ぴあ最終号」

PIAめて『ぴあ』を手に取ったのは、1976年5月。表紙はアラン・ドロンの『ル・ジタン』。首都圏のエンタテインメント情報を網羅したその誌面に圧倒された。映画館が3館しかなかった街から上京してきたワカモノにとって、『ぴあ』を通して目の前に広がる東京という都市はエンタテインメントの大海だった。『ぴあ』という海図と羅針盤がなければ、とても大海原に漕ぎだせそうもなかった。その海図には小さな映画館もロードショー館もフラットに掲載されていた。権威的な視点はなかった。たまに(というか割と頻繁に)誤植があったし、それを発見してはその手作り感を喜んでいた。押し付けられた情報を受け取るのではなく、自ら情報を探すことが楽しみだった。行きたいと思う公演情報をラインマーカーで囲んだ。誰を誘おうかと妄想に近い計画を立てながらも、結局1人で名画座に足を運んだりしていた。

時、駿河台にあるアテネ・フランセに通っていた私は、ある日教室の窓から『ぴあ』の看板を発見した。身近な存在だった『ぴあ』にますます親近感が湧いたが、こんな小さなビル(の一室?)で作っているのかと驚きもした。今思えばTwitterの先駆けのようなはみだしYOUとPIAも、あまくさまゆみが描くコオニちゃんのぱらぱらマンガも、欄外のはみだし情報も、誌面の隅々まで目を通した。以降、1980年代前半まで、毎号のように購入しては街に出かけるという『ぴあ』と私の蜜月時代が続いた。『ぴあ』によって演劇に目覚め、唐十郎の状況劇場、自転車キンクリート、加藤健一事務所の芝居と出会った。デビューしたばかりのサザンのライブを観に江ノ島マリーナに出掛けた。毎年、元旦は内田裕也プレゼンツの年越しライブ会場で迎えた。夏には野外フェスで身体を焼いた。そんな学生時代を過ごした私の隣には『ぴあ』があった。

学を卒業した私が入社したのは、某大手百貨店。情報発信基地を標榜した当時の人気企業であり、糸井重里のコピー「不思議、大好き。」などで知られる時代の寵児だった。セゾン美術館、スタジオ200、アールヴィヴァンなどの文化施設を持ち、「六本木WAVE」や「無印良品」などの新たな業態を創出した。文学者でもあった経営トップの経営方針は「感性の経営」と呼ばれ、文化事業を重視した企業風土に惹かれて入社した会社だった。けれども当然のことながら根幹は流通業だった。そして1986年夏、縁あって『ぴあ』を発行するぴあという会社に入ることになった。ぴあという会社には、『ぴあ』的世界で仕事も遊びも楽しんでいるヤツらが大勢いた。その当時のぴあのキャッチコピーに「ぼくらは世界で一番面白い街に住んでいる」というのがあったが、それを体現しているのは、ぴあで働くスタッフたちそのものだった。

あ』は、客観性、網羅性、検索性、携帯性を持つ情報誌だった。そこにチケット販売という機能が加わり、ライブエンタテインメントの「場」をも提供することになった。チケットぴあだ。入社した私は、流通業での経験を活かし、チケットぴあの店舗開拓を担当した。北海道から九州、台湾まで、出張日数は年間100日を超えた。そして出張の合間に、芝居を楽しみ、コンサートに行き、美術館を巡り、映画を観た。傍らにはもちろん、いつも『ぴあ』があった。その後も幅広い業務を担当した。1996年のアトランタオリンピック、2002年の上海展開など海外出張も多かった。そして、20年ほどお世話になった後、ぴあを離れることになった。けれど、その後も『ぴあ』的な生活は変わらなかった。

2011年7月21日、『ぴあ』の最終号が発売された。多くの読者やぴあOBや現役の社員たちがFacebookやTwitterで盛んに惜別の思いを発信した。時代は変わった。役割を全うした。お世話になった。ありがとう…。

2011年現在、網羅性と検索性、携帯性を持ち、チケット予約やクーポンの機能まで持つスマートフォンが世の中を席巻している。確かに今や『ぴあ』の存在意義は失われた。それでも、私の『ぴあ』的生活は変わらない。楽しいことや美味しいモノに貪欲で、軽いフットワークでライブエンタテインメントに出掛けて行く。

あ』のスピリッツは、今でも私の中にある。きっとこれからもずっとある。ぼくらは世界で一番面白い街に住んでいる。

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