母の、そして妻への。「お弁当の記憶と記録」

Bento1Bento2校時代、毎朝弁当を2つ持って学校に出かけた。そこそこ強豪のバドミントン部に所属していた私は、朝練に参加するために早起きし、朝食も食べずに電車に乗った。通学で使っていたのは田舎のローカル線。4人掛けのボックス席。そこで母が作ってくれた1つめの弁当を食べた。詰めたてのほかほかご飯。冬ならタラコ、夏なら梅干がご飯の真ん中で鎮座。卵焼きもまだ温かい。あっという間に平らげる。2つ目の弁当は、朝練で汗を流した身体では昼まで待てず、早弁。そして昼時には学校の外へこっそり出かけ、かけうどんを啜った。そして放課後の練習が終わって、菓子パンや中華マンなどを買い食い。もちろん家に帰って夕食。たまに夜食。1日5〜6食。食欲の塊だった。

Bento6Bento3学生の頃、冬のお弁当は石炭を燃やすダルマストーブの上で温められた。1970年代、まだまだ日本人の生活は貧しく質素だった。『巨人の星』のアニメが放送されていた頃。星飛雄馬はまだAuのCMには出演しておらず、星一徹は現在では使用禁止用語らしい“日雇い人夫”をしながらちゃぶ台をひっくり返していた。そして質素な生活であっても、子供たちはお互いの弁当の中身が気になった。とは言え、ほとんどの弁当箱の中にあるのは前の日の夕飯の残り物だったり、せいぜいが卵焼きや焼魚。もちろんキャラ弁などを競うなどということはあり得なかった。

Bento4Bento73人兄弟の長男だった私から年齢の離れた末弟まで、母は20年近く毎朝弁当を作り続けたはずだ。毎朝子供たちより早起きし、弁当を作ったのだと思う。それを当たり前だと思っていた。だから、そんな母におかずの好き嫌いだとか量だとかの文句は言っても感謝のことばをかけた記憶がない、今さら後悔のかつての思春期の男子。そんなダメ息子は、東京ガスのCMを視る度に、母のお弁当に最後にはお礼のメッセージを残す息子の映像に毎回涙した。今なら軽やかに言える。今なら言いたい。ありがとう。美味しかった。けれど母は亡くなり、間もなく七回忌。もうそれも叶わない。

Bento5Bento8ロリーメイトとかだけじゃなく、ランチに生野菜のお弁当作って行って食べようかな」ある夏の日、妻がそう言った。けれど、寝坊気味の妻。初日から挫折。以来、毎朝サラダランチ弁当を作ることが早起きの私の仕事になった。これが楽しいのだ。週末に野菜を買込み、1週間のメニューをイメージ。ある日はコールスロー、ある日はラタトゥイユ、ダイコンと貝柱のサラダ、あるいはキャロットラペ。彩りを考え、かりかり齧りたいという妻の要望に応え組合せを工夫する。美味しかった!と言われることが嬉しい。妻のことばこそがモチベーション。だからこそ、美味しかったと言えなかった10代の自分のためにも作り続ける。そして弁当を撮影し、記録する。

IGAIGA、自分の分も作ってるの?偉いねぇ!」ある日、Facebookにお弁当写真をアップすると、友人からそんな質問。いやいや。私はもっぱら“自由が丘ランチ”、あるいはシウマイ弁当。それが私のお楽しみ。母の弁当を想い、今さらながら感謝し、そして妻への弁当を記録しながら。

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