息子、帰る「祭の日」

Maturi7港として栄えた港町に、弁天島という陸続きになった小さな島がある。そこに厳島(いつくしま)神社という小さな神社がある。広島の宮島にある厳島神社が総本社で、全国に500ヶ所ほどある市杵島姫神(イチキシマヒメ)を祭神とする神社のひとつ。神仏習合時代に、仏教の女神である弁財天と習合された。この町の神社も「弁天様」と呼び慣らわされ親しまれてきた。島自体がご神域でもあのるだろう、島の突端にも鳥居があり、小さな祠があった。市杵島姫神は宗像三女神の辺津宮であるから、中津宮、沖津宮の祠であったのかもしれない。子供の頃は、磯遊びや釣りの場所でもあったけれど、この島そのものに怖れがあり、その怖れの核となるのが神社だった。

Matsuri年4月15日、神社の例大祭が行われる。謂れは知らないが、神事だから曜日は関係なく15日。地元の小学校は“お祭りの日”は休みになり、子どもは神輿の担ぎ手になる。けれど中学は広域学区だから休みにはならず、祭りに参加できるとは限らない。高校生になるとクラブ活動やデート、受験勉強が優先。祭を見に行くことすらなくなる。ましてや、高校卒業後に町を離れた者は祭とは縁遠くなる。まさしく私がそうだった。祭の日は遠い日、子ども神輿を担いだ頃の記憶しかない。ところが、50年近く経ったこの日、入院中の父が一時帰宅。自宅に戻り、病人とずっと付き合うこともなかろうと気遣う父に「観に行ってこい」と促され、妻と一緒に祭見物に出かけた。

Matsuri2輿はどこにいるんだろうね」と妻。遠くからお囃子の音が聞こえる。小さな町だ、すぐに見つかるだろうと見当をつけて歩く。ぴぃ〜りら、ぴりらりらりらり、ぴりららりら、ぴりらりらり♬と、お囃子が近づく。記憶の底に沈んでいた笛の音が間近に聞こえる。そして神輿や獅子舞の行列の先頭で笛を吹いていのるは我が弟だった。地元の市役所に長く勤め、早期退職してバーを開業した弟は、地元でしっかりと根を張っていた。紋付袴、白足袋にワラジの祭装束。何だか誇らしげな後ろ姿だ。神輿とともに町を歩く。担ぎ手たちの足下がふらつく。各家の前で振舞われるお神酒を飲み続け、笛の音に合わせてかけ声を上げ、よろよろと進む。それには訳がある。

Matsuri5装束の精進人(しょうじと)と呼ばれる担ぎ手たち。彼らには試練が待っている。雪解けの冷たい水が流れるこの時期の川に、精進人が担ぐ神輿を流すのが習わし。お神酒を呑まずに川に入ったら秒殺。水の冷たさを感じない高揚が必要なのだ。神輿に川の水を掛け、洗い清める。担ぎ手同士で水を掛け合う。それが祭のクライマックス。子どもの頃、酔っぱらった担ぎ手たちが観客たちに声を掛け、ふらついた足で寄って来る様子が恐ろしかった。けれど、今なら分かる。彼らは町に残り、町と共に生きる、町を愛する男たちなのだ。長い冬が終わり、春を迎える歓びを神事に託しているのだ。今なら分かる。祭りの日を指折り楽しみにして、この日を迎えたのだ。

Matsuri6輿に付いてさらに歩く。お神酒を振舞っている中に幼なじみの顔があった。久しぶりの対面にお互いにちょっと照れながら短い会話を交わす。同級生が見物しているだけの私にもお神酒を振る舞ってくれる。お囃子、笛の音、太鼓の音、精進人たちのかけ声。子供神輿、赤獅子と黒獅子の獅子舞、天狗の装束は猿田彦。酔って倒れ込んでしまった今年デビューの精進人は同級生の息子だという。故郷の祭は懐かしく、かつ初めて観る祭のように新鮮で、かつて子供だった頃の心象風景とは異なる祭として目に映る。少子化、過疎化が進み、担ぎ手たちが減っている中、祭を残そうと奮闘し、かつ祭を楽しむ町の人々。獅子に頭を噛んでもらう幼子を抱く若い母親の姿が嬉しい。

ぃ〜りら、ぴりらりらりらり、ぴりらりりら、ぴりらりらりらり、ぴ〜らりらら♬弟たちの吹く笛の音。東京に戻ってきた春の日に、す〜っと浮かんだ。

*写真の一部は「鼠ケ関神輿流し」より (管理人の1人の)弟から許可をもらい転載しました。

コメントする








002184380

SINCE 1.May 2005