“想い”のおもひで「カリエール展」
2016年 10 月16日(日)
10代最後の年、旅先の倉敷の大原美術館でその絵に出会った。ウジェーヌ・カリエールの「想い」という作品。当時は名前も知らない画家の、その小さな絵の前でしばらく動けなかった。女性が片肘を付き、物思いに耽っている。色彩に乏しく、霧がかかったようにぼんやりとした輪郭。その女性の表情は悲しいのか、楽しいことを思い出しているのか、悩んでいるのか。見る人に委ねられているように曖昧で、見る人のその時の「想い」を表わすようでもあった。10代の私がどう捉えたのかは覚えてはいないけれど、しばらく飽かず眺め、すっかり魅了されてしまった。美術館を巡る旅がそれまで以上に好きになり、誰の絵が好きかと聞かれれば、迷わずカリエールの「想い」と答えることになる。10代の私に、誰もそんなことは聞いてはくれなかったけれど。
20代最初の年、パリに2ヶ月弱の短期留学をすることになった。アリアンス・フランセーズという語学学校に通う、というツアー。入学初日にクラスを決めるテストを受け、学生証を発行してもらい、カルト・オランジュという定期券を買ってしまったらこっちのもの。2日目以降には全く通学せず、ルーブル美術館や印象派美術館(当時はオルセー美術館はまだ開館前だった)を見て回り、リュクサンブール公園をぶらつき、街のカフェで屯した。そのツアーの中に広島出身の女性がおり、帰省の度に立ち寄る大原美術館の「想い」が大好きなのだという話題になった。驚くべき偶然。運命の出会い?では、パリ市内にあるカリエール作品を一緒に見に行こうということになったものの、「想い」以上の作品には出会えず、彼女ともその後会うこともなかった。
50代の最後を迎えようとしている今年、「カリエール展」が開催されるということを知った。副題は「セピア色の想い(パンセ)」。これは行かねばだ。カリエールの作品は、大原美術館所蔵の「想い」に限らず、“カリエールの霧”と称される幻想的な表現を使った作品が多い。例えば、美術展のメインビジュアルに使われている「手紙」という作品も、霧の中で子供を抱く母が手紙を読んでいる。その内容は嬉しい便りなのか、悲しい報せなのか、やはり鑑賞する側に任せされている絵に見える。ただ、「想い」と違うのは、抱かれる娘の明るく無垢な表情。けれども、それは嬉しい手紙の象徴なのか、悲しい便りとの対比を描いたのか、またしても曖昧で、淡い色調の中に秘められている。セピア色のパンセという副題通り、30年以上も前の記憶が懐かしく、甘酸っぱく蘇る。
「Luckyだったね♬」53歳になったばかりの妻が言う。美術展を見た後、土地勘のない新宿西口を彷徨った。その後、何となく入った中華料理屋が“当り”だった。パリパリの羽根つき餃子、合菜戴帽(野菜炒めの上に帽子のように巻いて焼いた卵を被せてある)などが素早く出てくる。失礼ながら期待できない店構えにも関わらず、メニューは豊富、味もそこそこ、お値段は手頃という小さな幸福。団体客で賑わう狭い店内は、大声で会話しないと相手の声が聞こえない。日本語が余り上手ではない店員が、変な日本語でオーダーを繰り返す。ふだんならイライラするシチュエーションでも、余裕を持って笑って楽しめる。ネガティブな状況もポジティブに捉えれば楽しみに変わる。受け手に感情を委ねるのは、絵画も料理も一緒…なのかもしれない。違うか(笑)。
「60歳近い今の方がずっと若々しいなぁ」20歳の頃の私の写真を見て妻が言う。まぁね。何者かになろうとして、何者になれるのかを想い、迷ったり、足掻いたり、そんな“こっ恥ずかしい”時代だった、んだよ。ねえ?40年間という時間を挟んだ、10代最後の齢の私に話しかけた。返って来た彼の想いは…。
いわゆか
はじめまして
カリエールの想いを検索していて、こちらにたどり着きました。
私もカリエールの想いに魅せられた一人です。
高校の修学旅行で立ち寄った大原美術館。
この絵の前で、時が止まったように立ち尽くしていた気がします。
修学旅行から帰宅し、どうしても絵が忘れられず、大原美術館に、ポストカードを送ってほしいと連絡した記憶があります。
あれから30年を経て、このブログにたどり着き、興奮しながらコメントしてしまいました。
失礼しました!!
IGA
いわゆかさん こんにちは♬
コメントありがとうございます。私のブログがいわゆかさんの思い出に多少でも良い作用があったとしたら、とても嬉しいです。
数年前に久しぶりに訪れた大原美術館ではカリエールの「想い」が展示されておらず、淋しい思いをしたので、またぜひ会いに行きたいと思います。