「火曜日だったら、私一日暇だから迎えに行ってあげるよ!」ご近所の高級住宅街に住む友人から、そんな嬉しい申し出があった。妻を送迎する日々の中、その日はちょうど外せないアポイントメントが朝一番で入ってしまった日。妻1人で自宅前からタクシーで会社まで行ってもらおうかと思っていた。渡りに船。ありがたく申し出を受け、妻を託した。お迎えの車はベンツ。妻を会社まで送った後、自分はエステに行くとのこと。さらには、「エステが終わった後にまた会社まで迎えに行くよ!」と、夕方に立ち寄ってくれるという。妻の会社で合流。3人で夕方の街をドライブ。せっかくだから彼女の住む街に向い、一緒に食事をしようという計画だ。
「今朝は渋滞してたから、ずーっと車の中で2人でおしゃべりしてたんだよね♬楽しかったよ」友人にお礼を言うと、そんな屈託ない返事が返って来る。彼女とはスカッシュを通じて知り合い、家族ぐるみで10年以上のお付き合い。同じ時期にたまたまパリを旅していた2家族で、一緒に食事をしたこともあった。「あっ、これお土産ね♡」先週パリから帰って来たばかりの彼女。差し出されたショッピングバッグには紅茶やクッキーなどが入っている。「エルメスのバーゲン、今回は混んでてさぁ」さらっと語る話が嫌みにならない、敵を作らない得な性格。最寄り駅近くで降ろしてもらい、エレベータで行ける中華料理店「桂花」に向う。お気楽夫婦の“持ち球”の中から、松葉杖で入り易い店、店内を移動し易い店を選んだ結果。
「いらっしゃいませ」店内に入ると、ほとんどの人が戸惑いの色を声に滲ませる。妻が怪我をして数週間、ようやく外食できるまで快復して分かったことがある。多くの飲食店では、松葉杖で外出して大丈夫なのか?ウチに来てもらって不自由を感じさせないか?という好奇心と不安と心配とが混じり合った、それでも概ね好意的な対応で迎えてくれる。だからこそ、お互いに気を遣わない馴染みの店に行くことになる。松葉杖を立て掛け、怪我した足を向かいの椅子に乗せる。お行儀は悪いが、使っていない足を下げっ放しにすると、象の脚のように浮腫んでしまう。「それにしても、ずいぶん早く良くなってるよねぇ。良かったね♡」再合流した友人と妻の快復に乾杯。
怪我をした翌日に入院、その翌日に手術。手術をした翌日に退院し、その翌日には出勤。早々の社会復帰。全コースをタクシー通勤から始め、タクシーに乗る距離を縮めながら、徐々に電車に乗る時間を長くして来た。そして5週目にしてようやく、怪我をした脚を50%程度の加重で地面に付いても良しということになった。これで飛躍的に行動範囲が広がり、妻も私も大幅に精神的&肉体的負担が減った。一緒に外食に行ける気持にもなった。「なるべくフツーの生活にしてね」という妻の希望で、スポーツクラブにも独りで通っている。友人たちとも新たに外食の約束を入れ始めた。諦めかけていた夏休みの計画も復活しようとしている。そんなフツーの生活がいかにありがたいかを実感する日々。「これで脚のむくみがないと良いんだけどね」と左のふくらはぎを妻が擦る。確かに左脚だけが足首の存在が感じられない“サリーちゃん”の脚。怪我が治っても、むくみはしばらく続くらしい。妻が心配する気持は分からなくもない。
「クララが立ったぁ〜♬」「松葉杖の扱いが上手くなりましたね」などと会社で皆に言われているらしい妻。電車も1人で乗り始めた。「皆、優しいから席を譲ってくれるよ」と涼しい顔。適応力は抜群。外では松葉杖、家ではゆっくりと松葉杖なしで過ごすことができる生活になった。それでも前の生活に戻るにはまだまだ時間が掛る。スカッシュができるようになるまでには、まだ数ヶ月かかるはず。失ったものを取り戻すには努力と忍耐が必要だ。けれど、妻が失ったモノはせいぜい左脚のアキレス腱。生活の全てを失ったわけではない。「年末までにスカッシュに復帰できるようにするよ!」明確なビジョンと目標を持てば、我慢もできるし一緒に頑張れる。失ってしまって分かる、とても大切なフツーの生活に戻るために。
…どこかの国の首相や政治家たちにも、そう伝えたい。
子供の頃、トマトは果物だと信じて疑っていなかった。果物の定義はいろいろあるだろうが、広辞苑には「①草木の果実の食用となるもの」とある。トマトも草木の果実で、食用になる。しかし、狭義には樹木になるものだけを指すことがあるらしい。すると、スイカやメロンやイチゴの立場はどうなる!と言いたい。(農林水産省の分類では、果物のように食べられる野菜となるらしい)さらには、デザートとして食後に生で食べられるもの、という区分もある。ここが、私の幼少時の記憶につながる。わが生家では、食後に、デザートとして、トマトを食していたのだ。それも、冷やしたトマトに砂糖をかけて。夏の日の夕餉。ガラスの器に盛られた赤いトマト。そして、その上には白砂糖。イチゴにグラニュー糖をかけて食べる感覚と全く一緒。
調べてみると、秋田ではトマトに砂糖をかける例が多く、韓国ではフルーツ籠の中にトマトを入れることがあるらしい。近頃のトマトの糖度は高い。ましてここ数年はフルーツトマトという名前で、さらに糖度を上げた品種が出回っている。トマト果物派としては、しめしめとほくそ笑む傾向だ。さらに、青山に本店のある「セレブ・デ・トマト」というトマト料理専門店では、フツーにトマトを使ったスイーツの数々がメニューに並ぶ。自家製トマトジャムのロールケーキ、完熟トマトのブリュレ、フルーツトマトのジュレなど、完全にフルーツ扱い。もちろん、スイーツだけではなく、スープからメインまでトマトに徹底的に拘った料理が供される。代官山、自由が丘、二子玉川などに支店が続々オープンしていることから、トマト人気はかなり高いということだろう。
ところで、生でも良し、火を通しても、ソースにしても美味しいトマト。お気楽夫婦の食卓にトマトは頻繁に登場する。盛付ける際に映えるトマトの赤い色は食欲をそそる。妻が怪我をして松葉杖生活が続いているため、外食がめっきり減っているお気楽夫婦。自宅で料理をして食べる頻度が上がった。そこで活躍するのがトマトという訳だ。ミディサイズの赤と黄色のトマトを使ったサラダ、トマトとバジルのパスタ、野菜たっぷりの冷麺、トマトの冷製パスタ風そうめん、妻に代わって私が作る料理のバリエーションも広がった。ちなみに、正確に言えば料理担当はもともと私。妻に代わってという表現は当たらない。早めに帰宅できさえすれば、料理を作ることは厭わない。料理の後片付けも嫌いではない。今がチャンスとばかりに料理のレパートリーを増やす。
「このトマト美味しいね。自宅で食べると、野菜たっぷり取れるから良いよね」と野菜好きの妻。そう言えば、トマトは野菜だと周囲に合わせて思い直した学生時代、野菜不足を補うために安売りのトマトジュースを買込み、毎日のように飲んでいたことを思い出す。野菜不足を手軽に補うことのできる代表格がトマトジュースだと思っていたのだから、堂々たる宗旨替えだ。トマトの赤色はリコピンという成分が多く含まれ、抗酸化作用が強く病気に対する予防効果があるという。熱を加えてもリコピンなどの成分がさほど減少しないトマトは、まさに気軽な素人料理の味方。栄養価が高く、手軽に扱える上に、何の料理に使っても失敗が少ない。
「美味しければ、野菜でも果物でも、どっちでも良いんじゃない」記事を読みながら妻が呟く。確かに、敢えてラベルを貼る必要はない。トマトはトマト。家事をどちらが分担しようが、お気楽夫婦はお気楽な関係のまま。
生誕50周年スペシャル企画★三谷幸喜大感謝祭!と銘打って、50歳になる節目の年である2011年に、映画、演劇、TVドラマ、小説の新作を計7本発表すると宣言した三谷幸喜。『ろくでなし啄木』『国民の映画』と立て続けに2本の舞台を終え、3本目の舞台『ベッジ・パードン』は6月開幕。幸い、お気楽夫婦はいずれの公演もなんとかチケットを手に入れ、観ることができた。ただし、『ベッジ・パードン』のチケットを入手したのは妻がアキレス腱を切る前のこと。手術後わずか3週間余りで、松葉杖をつきながら劇場に行くことになろうとは思ってもみなかった。手術の翌日から週に3〜4日は妻の出社に付き添いサポートする日々。松葉杖での歩行は、わずかな段差や床面の凹凸さえもバリア(障害物)になる。このタイミングで観劇は無理ではないかというアドバイスは妻には全く効果なく、観に行かないという選択肢は最初から彼女にはないらしい。
芝居の会場は三軒茶屋にある世田谷パブリックシアター。何度か芝居を観ている馴染みの劇場ではあるが、怪我人の視点で会場の設備を確認したことはあるはずもない。購入したチケットは2階席。エレベータはあるのか、車椅子用の席はあるのか、怪我人でも使えるトイレはあるのか。会場に確認の電話をする。「エレベータで2階席までご案内できます」との回答。ただし、車椅子用の席は別途購入の必要があるとのこと。そこまでする必要はないが、劇場はなんとかなりそうだと踏み、次に会場までのアクセスと観終わった後の行動パターンを検討。開演は19時。夕方に打ち合わせが入っており、さすがに妻の会社まで迎えには行けない。三軒茶屋までタクシーに乗り、会場近くで待ち合わせをすることにする。公演時間は2幕約3時間。事前に何か食べておきたい。約束の時間の少し前に会場周辺のロケハン。松葉杖でさっと食べられそうな店はない。駅前のサブウェーでサンドウィッチを購入し、会場に向う。
入口で松葉杖姿の妻を見ると、スタッフが声を掛けてくれる。「後ほどお席をご案内しますので、お声をおかけ下さい」ロビーはすでに観客で溢れており、食事をする椅子に空きはない。2階にも椅子はあるのか尋ねると「ございます。ご案内します」とスタッフ。するとエレベータは一般客が利用できない場所にある。なるほど。何度かこの会場に来ていても記憶にない訳だ。2階(建物としては5階)に上がると椅子がちょうど2脚空いているばかりか、スタッフがテーブル代わりの椅子を運んできてくれた。BLTサンドを食べ、客席の視察。う〜む、最後方の席で段差はないが、自分たちより奥の席の客が来る前には席に座れそうもない。難題。混む前にとトイレに向う妻。重そうな扉を他の客が開けてくれる。感謝。さすがにそこまでは私がサポートできない。開演直前、通路横の席に座っていた方へお願いし、席を交換していただく。またまた感謝。松葉杖を後ろの壁に立て掛けると開演。ふぅ〜っ。
芝居は、若き夏目金之助(漱石)のロンドン留学のエピソード。英語が上手く話せない留学生(野村萬斎)と、下宿の女中アニー(深津絵里)を巡るちょっとせつない恋物語。アニーはロンドンの下町生まれ。コックニー訛がひどく、「I beg your pardon」と繰り返し、ベッジ・パードンと聞こえた金之助に、あだ名でそう呼ばれた。20世紀初頭のロンドン、英語を話せない東洋人、ホックニー訛の女中。そこにはバリアがたっぷりある。生活習慣や文化の違いから生じるバリアだけではなく、ことばが通じないバリア。そして、登場人物それぞれが抱える苦悩、葛藤、コンプレックス。いつも通りに笑いもたっぷり詰まっている三谷幸喜芝居であるものの、ややビターなテイストが勝っている。明治時代の留学生にぴったりの野村萬斎も、やんちゃで健気な深津絵里も、どの芝居も地ではないかと思ってしまう自然な(?)演技の大泉洋も、美味しい役満載の浅野和之も、ずるく弱く強く歯がゆい浦井健治も、役者が良い。けれど、妻の様子が気になり芝居に集中できない。
「くぅ〜っ、足が重いぃ〜」終演後、席を替わっていただいた方にお礼を言いつつエレベータに乗る。タクシーで自宅まで直行するしか選択肢はなさそうだ。後部座席で包帯を外す妻。「ふぇ〜っ、足がむくんでぱんぱんだぁ」元気な身体でも3時間の芝居はきつい。ぐったりとした2人、深夜のタクシーから降りる頃にはへとへと。「でも、なんとか観られて良かったぁ♬」と妻。彼女にとって精一杯のお礼のことばらしい。まぁ、良しとしよう。