
1970年代の終わりから80年代のはじめ頃、東京都内にはまだ名画座と呼ばれる映画館が数多く残っていた。渋谷の東急名画座、渋谷文化、新宿のテアトル新宿、名画座ミラノ、池袋の文芸座、テアトルダイヤ、飯田橋の佳作座…。1972年に創刊され、まだ月刊の情報誌だった『ぴあ』を片手に観たい映画をチェックした。ロードショーは学生1,000円前後。それに対し、当時の名画座は2本立てで300円程度。さらに『ぴあ』を提示すると割引になる。貧乏学生にとってはありがたかった。100円の『ぴあ』も、名画座で割引してもらえば元が取れた。毎月発売日を待って『ぴあ』を買い、名画座に足を運んだ。アメリカン・ニューシネマと呼ばれた『俺たちに明日はない!』『明日に向って撃て!』『カッコーの巣の上で』、ジャン・リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーなどヌーヴェル・ヴァーグの監督たち、ブルース・リーの旧作、オーソン・ウェルズの作品…。ラブストーリーからアクション映画まで、幅広く節操もなく観まくった。
そして、若気の至り。観た映画の感想をメモし、採点をしていた。音楽、ストーリーという項目と、総合でそれぞれで100点満点。コメントも偉そうである。若さとは、何とこっ恥ずかしいものだろう。それを恥ずかしいとか言いいながら、堂々と公表してしまう程に年齢を重ねてしまった現在も。さらに言えば、そんなノートを保存していることもどうかとは思うが。ところで、そんな己を知らぬワカモノに採点された作品群の中に、圧倒的な高得点を獲得した作品があった。それまでの最高点、ジョージ・ルーカス監督の出世作『アメリカン・グラフィティ』の総合130点(おいっ!100点満点じゃなかったのか!と30年前の自分に突っ込みたくなる)を超え、『サウンド オブ ミュージック』が堂々の総合132点。その後100点満点を超えた不条理な得点をたたき出した作品が、当時はまだ子役だったジョディ・フォスターが妖しく演じた『ダウンタウン物語』125点だけだったことを見ても、圧倒的な(2点差が圧倒的かどうかは分かれるところだが)1位。堂々たるMy Favorite Cinema。
『サウンド オブ ミュージック』の公開は1965年。その製作45周年を記念して、20世紀FOXがHDリマスター版のDVD、ブルーレイディスクを発売した。そのニュースは知っていた。リマスター化によってノイズを除去し、高解像度のデジタル化によるキレーな映像になるんだろうなぁ、ぐらいの知識で。ところがある夜、自宅に戻って何気なくTVのスイッチを入れると、飛び込んできたのはジュリー・アンドリュース演じる修道女マリア。子供たちと一緒に『Do-Re-Mi (ドレミの歌)』を歌っている。紛れもなく名作ミュージカル『サウンド オブ ミュージック』だ。映像はかつて渋谷文化で観た画像の記憶よりも鮮明だ。そして、決め手は1昨年に家電エコポイント政策に乗っかり大型化したわが家のTV。これまた調子に乗って購入したパーソナルチェアにゆったり座って視れば、名画座の固い椅子で観た青春の画像もまた新鮮。デジタル化のもたらす恩恵の何と素晴らしいことか。
タイトル名の『The Sound of Music』『My Favorite Things (私のお気に入り)』『Climb Every Mountain (すべての山に登れ)』などの名曲が流れる。そして、クライマックスとなるトラップ一家のコンクール参加シーン。トラップ大佐が歌う『Edelweiss (エーデルワイス)』。*実はこの曲、昔からある曲ではなくこの映画のために作られたものだという。大佐が故郷の行く末を思い感極まり途切れがちになる歌声を、マリアが優しく寄り添い一緒に歌い切る。そして一家は見事に優勝。このシーンを30年前のワカゾーは甚く気に入り、高得点を付けたと記載している。その後、表彰式での発表の隙をみて逃走する一家。そして国境を越え、アルプスの尾根を揃って歩く家族の映像でエンディング。いつの間に、じんわりとしてしまっている私を余所に、妻は「先にお風呂に入っちゃうよぉ♬」と、そっけない。思い入れのない妻にとっては“ただの有名な映画”。途中から視ても感情移入ができないらしい。
「私はやっぱり人が死んじゃう映画の方が好きかな」と、小説と同様にアクションものやサスペンス映画が好きな妻。『サウンド オブ ミュージック』は、そんな妻の好みとは対極にある。視終わった途端にDVDを思わず買いそうになった私。そして、妻のことばを聴いた瞬間に諦めた私だった。
発明王として知られるエジソンのことば、〜Genius is one percent inspiration and 99 percent perspiration〜は、「天才は1%の才能と99%の努力だ」という訓話的なメッセージとして有名だ。才能だけではなく、努力をしなければいけないよ、という意味で。けれど、このことばの解釈にはもうひとつ、「1%のひらめきがなければ、99%の努力はムダだ」というものがある。ことばの解釈は人によって違っても構わない。ことばは発した人から離れた瞬間に、それを受け取る側のものになる。真意と違っていれば訂正の必要はあるが。このメッセージをどう捉えるかによって、その人の人生の捉え方が分かるのかもしれない。
才能とは、生まれながらに持った資質でもあり、訓練によって得られた能力でもある。確かに、努力によって(程度の差はあれ)能力は得られる。けれど、生まれ持った資質は人によって大きく異なる。人に優劣があるという意味ではなく、得意な領域が人によって違うという意味で。そして、埋もれた才能と言う呼ばれ方があるように、持ち得た才能を発揮しきれないままの人がいる。というよりは、スポットライトの当たらない才能の方が多いのかもしれない。自ら選んだ領域で能力を発揮できるか、結果が出せるかどうかは、継続できるかどうかという本人の努力と、継続させてあげられるかという周囲の(経済的・精神的)環境に因ることが多い。
「クリスマスって何してる?忙しいよね?」ご近所の高級住宅街に住むスカッシュ仲間からのお誘い。「え?Sちゃんのコンサート?OK!行くよ!」クリスマスの午後、お気楽夫婦は杉並にある小さなホールに向った。「ダメです。もう吐きそう」開演前のSちゃんを訪ねると、いつもの笑顔はなく、緊張で顔が強ばっている。君のお母さんだって、スカッシュの試合の前は吐きそうだって言ってるよ。アドバイスにもなっていない声を掛ける。サロンのような温かな雰囲気の中、ピアノ、ヴァイオリン、チェロの3人のコンサートが始まった。最初は緊張していたSちゃんも、次第に解れてきた。4歳から始めたヴァイオリン。素人であるお気楽夫婦が聴いても、そのレベルは高いのが分かる。音楽大学の同級生だと言うピアノも、チェロも、心震える程の技巧。音。表現力。小さな会場ならではの迫力ある演奏を前に、人の才能について思いを馳せた。
音楽やスポーツ、芸能の世界のマーケットは大きい。けれど、“富”は集中している。才能ある大集団が、幾多の選別の機会を乗り越え、絞り込まれる。そして、その中でもさらに機会に恵まれ、チャンスを掴んだ者だけが世の中に出る。そして、登場と退場が果てしなく繰り返され、ごく僅かな才能だけが巨大な富を獲得する。その富とは、名声であり、評価であり、報酬でもある。演奏家と言われる人たちが、音楽の世界で生活をする=報酬を得る道は険しい。彼ら3人の演奏は素晴らしい。それぞれがコンクールでいくつかの賞を得ている。けれど、音大3年生の彼らが、これから音楽で報酬を得ることは並大抵のことではないだろう。楽団に入る、演奏を教える、音楽家として独立する選択肢は多くはない。けれど、趣味で終えてしまうレベルでは余りに惜しい彼らの才能は、どこに向えば良いのだろう。
「第2部は可愛かったって、IGAIGAぁ、第2部だけ?」演奏を聴きに行った仲間たちと乾杯をした酒の余りの美味しさに、2次会に彼らのご自宅にお邪魔した。自らも別の会場で演奏をしてきたというSちゃんの父親が不満げな声を上げる。第1部は緊張してたけど、休憩を挟んだ後のSちゃんは可愛かったという私の報告に対する反論。親バカである。けれど、彼の音楽への愛情が、娘への愛情が、娘の才能を育てた。娘の努力を生んだ。幸せな親娘。幸福な家族。才能を磨き、努力を重ね、ここまでやってきた。後はどんな結果が彼女を待っているのか。「どんな道に進むか分かんないけど、Sちゃんのことはずっと応援するよ♬」妻のお気楽スタンス発言。まぁ、そんなところだね。
日本語では否定的なことばとして使われることの多いマンネリ。英語でmannerism(マンネリズム)そしてフランス語でManiérisme(マニエリスム)とは、本来の意味から言えば形式主義、様式主義。新鮮味がなくなり、毎回同じ内容で飽きられてしまうということで、マンネリと言われることが多い。けれど、コンテンツに魅力があり、人気があるからこそ同じような内容で制作されるというのも一方で事実。男性=白組、女性=紅組の対抗戦という構図で勝敗を競う、偉大なるマンネリと称される年末恒例のNHK番組『紅白歌合戦』がその代表。以前は、南極観測隊からの応援メッセージ「基地の周囲は雪と氷で、白、白、白」とか、最後の会場審査の紅白の数をカウントする日本野鳥の会のメンバーとか、“お約束”の演出が印象的だった。けれどそれは、『プロポーズ大作戦』のフィーリングカップル5 vs 5とか、『ねるとん紅鯨団』の「友だちからお願いします!」「タカさ~ん…チェック!」などというお決まりのセリフと同様に、同世代に通じる共通の記憶、キーワードでもある。
「また今年も美味しそうだねぇ♪」例年、妻の故郷である浜松で過ごすお正月。恒例の割烹 弁いちのお節料理を前に妻が微笑む。毎年振り返ってみれば、お弁当を買い込み新幹線に乗り、浜松に到着する頃にはすっかり酔っ払ってしまう年末。けれど、今回は到着後すぐにスポーツクラブに向かうこともあってノンアルコールビールで喉を潤す。さらに、スポーツクラブでスカッシュの打ち納めをした後は、家族揃って外でお食事…という慣例を少し変更。今回は都内で買ってきたDEAN & DELUCA のデリを持ち帰り、家で食事と決め込んだ。外で食べると気を遣うという妻の両親を慮っての作戦。「すっごぉ~い!豪華だねぇ」2人だけでは買えない、何種類ものちょっとゼータクなデリに妻もご満悦。そんな風に、年ごとに少しづつ違ってはいても、毎年恒例の家族の光景だ。
「あらら、これはどうしたの?」これまたお約束の冷蔵庫内食品賞味期限チェックをしていた妻の声。見れば冷蔵庫の中には見慣れぬ形の白い塊。巨大な白たい焼きのようでもある。「通販で買ったの。TVでやってて美味しそうだったからねぇ」うわぁ、タイの塩釜。うぅむ、どうやって食べようか。料理担当の私を悩ませる食材。「そのまま割って皆でつつけば良いんじゃない?」両親の元でお気楽度が増す妻が呟く。そういうものではないと思うけどね。「お父さん、割ってみて」母娘が声を揃える。無口な義父が小槌を振り下ろす。タイのミネラルをたっぷり含んだ塩がダイニングテーブルの周囲に飛び散る。思わず笑ってしまった私の笑い声が、じわじわと家族全員に拡がる。誉める、笑う、喜ぶ、驚く、それが口数の少ない妻の家族の中で果たすべき私の役割。飛び散った塩に憤慨するのではなく、楽しんでしまうことが義父母の記憶に残る。きっと楽しい思い出として。
「ところで、今回の宿は前回と同じだったね。富士山が良く見えるのが気に入ったの?」妻が両親に尋ねる。恒例の年末のご近所旅行。富士山を望む焼津のホテル。富士山を眺めることが大好きな義母が、また今回もと選んだという。「同じ宿に2年続けて泊まったのは初めてだったね」妻が言うと「前に館山寺のホテルに続けて泊まったよね」妻に答えるでもなく、義父に問いかける義母。過ぎ去れば淡くなる記憶。それは5年前でも10年前でも構わない。いつも通りに、いつも通りのお正月が過ぎて行く。「またお雑煮作ってね」と妻に言われなくなって何年経つのだろう。言われなくても、いつの間にか担当するようになった妻の実家での手料理。義父母にとってもそれが自然になった。旨いね!とか、美味しそう!とかの反応は薄い3人だけれど、黙って(たぶん)美味しそうに食べる親子を眺めるのも私の楽しみ。
口数の少ない3人の親子の前で、このカラスミはやっぱり美味しいね、この昆布締めはもう幸せだね、うぅむさすが弁いちさん、おっ!このタイの出汁で作ったお雑煮も旨いね…繰り返し繰り返し、喜び、誉め、楽しむ私。私自身にも、そんな「私」が欲しい。「ダイジョーブ!私の代わりにSちゃんや、Hちゃんが今年も誉めたり、喜んでくれるよ!」それもまたいつもの通り。こうしてお気楽夫婦のお正月が、新年が、いつものように始まった。今年も、そんな2人と『快楽主義宣言』をよろしくお願いいたします。