この店で味わうべきは「割烹 弁いち」

Benichi1の故郷浜松に「割烹  弁いち」という店がある。創業は大正13年というから、あと数年で創業100周年を迎える老舗。初めて訪れたのは10年程前。「さとなお」のブログで店の存在を知り、店主の鈴木さんが今でも店のサイトに書き続けている「板前日記」の読者だったお気楽夫婦。いつかはと望みながらの初訪問で、すっかり店の味の虜になった。そして今では浜松を訪れる楽しみ…というか、目的のひとつになった。

Benichi2になった店の“味”と言っても、この店の場合は料理の味だけではない。店主の鈴木さんが選んでくれる酒の味がもう一つの魅力。最初の一杯、飲食店限定のエールビール「ガージェリー・エステラ」で、山菜の天ぷらなどの前菜をいただく。このビールもこの店を訪れる楽しみ。最高のコンディションで供する事ができる店にしか卸さないプレミアムビールをオリジナルのリュトン・グラスでぐびり。至福の1杯を味わう。

Benichi3振りのハマグリに山菜を合わせた椀物にと選んでもらったのは、「伯楽星 純米大吟醸」という宮城の酒。JAL国際線のファーストクラスにも備えられているという、食中酒にぴったりの爽やかな旨さ。厳選された食材の魅力が引き出された料理により添う、まさしく酒と料理のマリアージュ。続いてお造りと共に供されたのは「松の司 大吟醸純米」というふくよかで上品な一杯。白身の刺身とのハーモニーが素晴らしい。

Benichi4にこの店を訪れる度に、豊富な種類の山菜と共に楽しみなのが京都のタケノコ。その日も焼き筍に自家製のオイルサーディンソースを掛けた、絶品の一皿が供された。「これだよねぇ」と酒を飲めない妻が、酒にぴったりの料理に舌鼓を打つ。この組合せを初めて味わったのは7〜8年前。その組み合わせの妙と、お酒がすすむ味わいに籠絡された。以来、毎年のようにこの料理を味わっていることは幸福なことだ。

Benichi7き物との組合せで勧められたのは「作(ザク)純米大吟醸 セレクションN」という逸品。杜氏の期待以上の出来栄えだった純米大吟醸だけが瓶詰めされるという。そんな酒への愛情感じる解説をしていただきながら、店主の鈴木さんに注いでいただくその日最後の1杯。料理と酒に加え、この店で味わえるのは、この“鈴木節”。話を伺う度に、店主の拘りが、空間にも、食器にも、現れているのが良く分かる。

Benichi8ケノコごはんと味噌汁、漬物でシメ。美味しいご飯も、上品によそっていただく。少食のお気楽夫婦のお腹を気遣っていただき、料理のボリュームを調整いただくのはいつものこと。美味しいものを少しづつ、最もゼータクで、ありがたい味わい方だ。ところで、100周年を一区切りで店を閉めたりしないですよね、と気になっていたことを伺った。「いやいや、区切りを目指して頑張ります」との嬉しい返答。一安心。

Benichi10ぐことも、続けることも一大事。それは会社も店も同様。会社経営を次世代へ承継する準備をし始めた、今なら分かる。三代続いたこの店の、それぞれの代が苦労したであろう歴史を、情熱を思う。なのに、店主の鈴木さんには気負いはない。そうだ。この店で味わうべきものが、もうひとつ。歴史の重みではなく、時代が変わっても、その時代の“食いしん坊たち”に愛される軽やかさだ。自信に裏付けされた柔軟さだ。

を出ると、街にはまだ祭の熱気が溢れていた。華やかな御殿屋台が街を照らし、オイショオイショという掛け声が街のあちこちに谺する。そう言えば、450年程前に始まったという浜松まつりも同様。戦争中に途絶えた祭も、戦後僅か3年で復活させたという。継がれた浜松まつり。

松には、“やらまいか”ということばがある。「やってみよう」「やってやろうじゃないか」ぐらいの意味で、遠州浜松の気風を現すことばだと言う。よし、お気楽夫婦も浜松に倣い、まだまだ、やらまいか!「仕事は後5年くらいで!」むむっ。

還暦祝い、そして終活「義父母との日々」

Hamamatsu15月の連休は妻の故郷浜松へ向かう。それがお気楽夫婦の春の恒例行事。仕事を終え、品川駅で酒とツマミを買い込み、新幹線に乗り込む。そして車内で2人だけの宴会。これも恒例。今年は「Kodama」のオードブル盛合せ、「小麦と酵母 満」のパン2種。そしてビールと白ワインをゲット。この短時間の宴会は、妻が娘に、私がマスオさんになるための儀式のようなものであり、浜松に向かう旅の楽しみのひとつだ。

Hamamatsu2年の義父母とのイベントは、温泉&ランチ企画。そこで私の還暦を祝ってくれるという。ありがたく嬉しいことだ。浜松の奥座敷、舘山寺温泉の「ホテル九重」という豪華な温泉旅館を予約してくれた義父母と、まずは吹き抜けの開放的なロビーで記念撮影。ソファの横にはインスタ用のパネルが“自由にお使いください”と備えてあり、母娘でポーズを取ってもらう。浜名湖と対岸の大草山を背にインスタ映えする1枚が撮れた。

Hamamatsu3内されたのは、畳敷きのお座敷にテーブルと椅子の個室。周囲に気兼ねすることなく、床に座らなくても良いというのがポイント。膝の悪い義母と、腰痛持ちの義父にぴったりの部屋。年齢を重ねる毎に身体のあちこちにガタがきてはいるけれど、大きな病気もせず、こうして一緒に食事に出かけられるというのは、しみじみと幸福なことだ。父母を亡くし、特に晩年の母は半身マヒのリハビリ生活だったことを思うと、尚更だ。

Hamamatsu4い膳の料理は、食前酒の梅酒と前菜の盛合せから始まった。名前や訪問日入りのオリジナル箸袋が琴線に触れるばかりか、義父からお祝いのメッセージ、サプライズのプレゼントまで用意されていた。「昭和の感じでしょ♬」という義母のコメント通り、包みを開けると豪華な万年筆が輝いていた。万年筆のお祝いは、昭和の定番。「大橋巨泉のハッパフミフミだね」中学の入学の際に初めて万年筆をもらった記憶が蘇る。

Hamamatsu5松の宿らしく、煮物やお造りの後に出てきたのは「うなぎの夫婦焼き」という蒲焼と白焼きの盛合せ。ふっくらとした関東風の蒲焼きに、カリッと焼かれた白焼きがより添う。どちらも少しづつ食べられる、食が細くなっても食い意地だけは張っているお気楽夫婦にぴったりの料理だ。義父母はメインの牛肉料理、金目鯛の揚げ物に辿りつく前に「もうお腹いっぱい」と箸を置く。老人にはコース料理の完食は無理。料理界の課題。

Hamamatsu6らんだお腹を抱えて、温泉に向かう。新緑に覆われた大草山と浜名湖を望む露天風呂は「たきや船」を模したもの。「たきや漁」という、浅瀬が続き魚介類が豊富な浜名湖ならではの独特の漁法で使う小舟。松明(たきや)の灯に集まってきた魚を銛で突くという、今では観光客向けにも披露されている伝統漁法だ。妻と共に20年以上浜松に通っていれば、そんな事にも詳しくなる。のんびり湯船に浸かりマスオさん束の間の休息。

Hamamatsu7休中の浜松は、祭り一色になる。「浜松まつり」という市民祭りは、日中の初子を祝う大凧上げは晴れやかな高揚感があり、夜は激しい練りと優美な御殿屋台の対比が面白い。第二の故郷と言う呼び方を聞く事があるが、私にとって浜松はまさしく第二の故郷になった。浜松の街も、祭も、食べ物も、すっかり身近な存在。嬉しく有難い事に、浜松に来るたびに通うスポーツジムでも、スカッシュ仲間が毎回お相手をしてくれる。

Hamamatsu8墓は樹木葬ができるとこに変えたの。葬式は身内だけで…」自宅に戻ると義父母が改まった様子で妻に語り始めた。お気楽夫婦に子供はいないし、妻は一人娘。娘夫婦に愚痴をいうこともなく、淡々と娘に伝える義父母の選択は潔い。だからこそ、できる限りの協力とサポートはして行きたいと、マスオさんは思っている。妻と義父母に残された“親子の時間”はもうそれ程長くはない。私には永遠になくなった親子の時間。

妻と義父母のやり取りを傍らで聞くともなく、ぼんやりと聞きながら、義母の用意してくれた「うなぎいもせんべい」をかじり、ビールをグビリと飲みながら、自らの老後と義父母の終活に想いを馳せる、浜松の夜だった。

あの頃、僕は東京で「別冊angle 街と地図の大特集」

Map1聞のコラムに“angle”の文字を発見し、思わず二度見した。「angle」は、1977年〜1985年に主婦と生活社が発行していた“東京”タウンガイドだ。その別冊「街と地図の大特集」が復刻されたという。迷わず書店に走り、中身も見ずに購入した。『あのころ angle 街と地図の大特集1979』というタイトルの2分冊。表紙には“40年前の東京にタイムスリップ!”とある。自分の年齢を忘れ、1979年とは40年も前なのか!と驚愕する。

Map2紙をめくると、「1979年 あなたは東京で何をしていましたか?」と問いかけられ、素直に我が身を振り返る。上京して3年目、アテネフランセと大学のダブルスクール、バイトを掛け持ちし、貯めたお金でパリに短期留学し…と、遠い目になる。『ぴあ』を片手に映画館を巡り、『angle』」を見ながら街を歩いた。青くて苦くて熱い恋もしていた。それを甘酸っぱく思い出すことができるようになるのは、ずっと後のことだ。

Map3らにめくると、復刻版の発行のために再結集した編集者たちからのメッセージ。当時“アンノン族”と呼ばれていた旅好きの女性たちにではなく、旅するお金はないけれど、夢と時間だけはあり余っているむさ苦しい男どものために生まれたのが『angle』だったらしい。さらには、雑駁なエネルギーに満ちた街の姿が浮かび上がり、若き日の自分が、そこで学び、恋し…などと気恥ずかしいけれど、どストライクな文章だ。

Map4ころで、私は復刻版ではない、1979年に発行された『街と地図の大特集』を持っている。表紙は色褪せ、角は擦り切れてはいるが、40年前に買った割には保存状態は悪くない。その頃の私は、風呂も電話もないどころか、トイレも共同の阿佐ヶ谷のボロアパートに住み、大学のある渋谷とアテネフランセのある御茶ノ水に通っていた。それらの街のページを開いてみる。すると、まさしく若き日の自分が浮かび上がってきた。

Map5えば、御茶ノ水。文字がびっしり詰まったモノクロの情報ページの手書き地図に、赤いサインペンで店名がチェックされている。当時の私が行った店なのだろう。「キッチンカロリー」「ジロー」「レモン」など、懐かしい店名が生真面目に細い線で囲まれている。アテネフランセの年長の友人たちと一緒に、背伸びしながらランチをした山の上ホテルの「シェヌー」も今はない。あの頃の“僕”は、あの街で濃密に生きていた。

Map6刻版『angle』を買った書店の平積みの棚に、もう1冊の地図が並んでいた。『Hanako FOR MEN 渋谷(区)新地図。』という、渋谷生まれの渋谷区観光大使、ホフディランのヴォーカル小宮山雄飛の推薦図書というキャッチ付き。100年に1度の大開発と言われている渋谷を、『angle』と全く対照的な現在と未来に向けた地図。と思ってページを開くと、意外にもページに漂う気配が近い。どちらも同じような匂いがするのだ。

Map9通項は何だろうと見比べてみると、はっきりと分かった。効率的にピンポイントで検索して目的の場所に向かうのではなく、街を歩いて楽しもうとするスタンスだ。味わいがあり、人間味のある手書きの地図だけではなく、街を歩き回って取材し、(googleのストリートビューのように切り取るのではなく)街を面で捉えて、街の空気感や色や匂いを掲載しているのだ。これはどちらも地図好きとしては堪らない。楽しい地図だ。

Map7の上、『渋谷(区)新地図。』には、今はなき「東急文化会館(1956年竣工)」、東急百貨店東横店(西館)と名前を変えた「東急會館(1954年竣工)」の開業当時の情報も掲載。これは完全に感涙モノ。東急電鉄の創業者である五島慶太と、ル・コルビジェに師事した建築家の坂倉準三が、渋谷の街の礎を作った経緯も分かり易く纏められている。大胆にも、“地下”鉄を劇場や映画館を配した“地上の”ビルに通したのはこの2人なのだ。

Map8ちろん、未来の渋谷地図もある。2019年から2020年にかけて駅街区や旧東急プラザ跡地、南平台、桜丘と次々に巨大なプロジェクトが姿を現し、現在のハチ公前広場を含めた渋谷の大変革が完成するのが、今から約10年後の2027年!その頃にはきっと“あの頃(現在)”の渋谷と自分を思い出すことになる。街の大きな変遷を眺めることができるのは実に興味深い。私が地図が好きな理由のひとつは、そんなところにもある。

ところで、“その頃(未来)”の私は、渋谷の街で、東京で、一体何をしているのだろう。現在と同様に、好奇心に溢れ、街を歩き回り、飲んだくれていたいものだ。

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