毎年GWに妻の生まれ故郷である浜松に向かうのを楽しみにしている。その楽しみのひとつが、この店を訪れること。創業90余年の老舗「割烹 弁いち」だ。この店主の鈴木さんは、食材にかなりの拘りを持つ。遠州灘、浜名湖、三方原と、魚介類や野菜の名産地が近くにあるけれど、地産地消を掲げている訳ではない。季節によって、全国各地の生産者から、納得できる食材を入手する。例えばこの季節なら山菜だ。
田舎育ちの私にとって山菜は採ったりもらったりするもので、店で買うという食材ではなかった。一方、浜松育ちの妻は山菜そのものを食べる習慣がほとんどなかった。そんな2人の前に最初に供された一皿は、コシアブラと山ウドの天ぷらと、鱒の寿司。感涙の味。これらは天竜川の上流にある佐久間町の生産者から入手した逸品たちだと言う。店主の手によって魅力を引き出された、洗練された野生を味わう。上品な香りだ。
続くお碗には、大ぶりのハマグリと共にウルイとワラビが添えられる。クキュクキュとした歯ごたえのウルイはチコリにも似た繊細で上品な味。そう言えば子供の頃に食べたっけなぁと、遠い記憶が蘇る。「あっさりとして美味しいよね」と、妻にとっては新鮮な味。絶妙な味付けのソースを纏った甘鯛にはゼンマイが寄り添う。この店のこの季節の皿には、さり気なく脇役としても山菜が配される。これがまたいいアクセント。
がっつりといただくジューシーで柔らかなラム肉には、サクサクのタケノコとクレソン。食材とソースの味と色合いと歯ざわりの組合せが嬉しくなる美味しさ。お気楽夫婦は基本的にこの店では料理も酒も全てお任せにしている。皿の選択、料理と日本酒とのペアリング、その酒の選択、更には酒とグラスの組合せ、複雑な方程式のようなコースを軽やかに演出するのが、この方、店主の鈴木さんだ。
数年前、店の規模を発展的にスリムにし、ご自分だけで料理ができるように改装された。店を大きくせず、多店舗展開もせず、料理のクォリティを高める方向を選択した。仕事の仕舞い方を考えられた結果だったと言う。当時、自分の仕事をどのように熟させていくかと考えていた時期だったこともあり、とても参考になった。私が熟成してきたかはともかく、鈴木さんの料理が熟成していく過程を年に数回とは言え味わえる幸福。
「山菜って、この店で初めて意識して食べたかなぁ」と妻がしみじみと呟く。苦味だったり、渋みだったり、大人になり、オトナの舌になってこそ味わえる口福。滋味深い食材や、酒や器を選ぶ目。料理の技。それらを組みわせた総合芸術のような「食」を楽しめる喜び。山菜が洗練された技によって食材本来の力を持つ。田舎料理で味わうのもいいけれど、お気楽夫婦にとっては、この店で食べてこその山菜だ。
「次は秋かな、正月のお節かな」タケノコご飯を頬張りながら、また口福を味わえる日のことを思う。そんな店。「次は、○○さんを連れてきたいね。△△さんも喜ぶかもね」親しい友人たちと、この味や空間を共有したいと言う思いが妻の中から溢れ出る。大切な人と一緒に味わいたいと思い、味わってほしいと思ってしまう。そんな店。「秋は天然のキノコが美味しいんだよなぁ」次は、××さん、ぜひご一緒に。
「マダムに会いたい♬」ご主人の海外赴任に伴いLAに渡航する予定の友人に、出発前に「ビストロ808」で一緒に飲みたい相手は誰かと尋ねたら、思いがけない答えが返って来た。2人の接点は、お互いに私のブログやSNSで知っていたものの、ナマで会ったのは私の還暦パーティの時だけ。なのになぜ?「とても楽しい方だったから、いつかまた会いたいなぁって」ふむ。そこでビストロ808のオーナー兼シェフは閃いた。
彼女も世界各地に駐在経験があるし、もうひとりNYCの駐在経験のあるスカッシュ仲間をお招きしよう!名付けて“駐妻ナイト”だ。2人に予定を確認すると調整可能。偶然にも平成最後の夜に、NYC駐妻、イランやスイス、D.C.などに駐在経験のあるマダム、そしてLAの前にはオランダに長く駐在した主役のスカッシュ仲間が集うことになった。「私も毎年香港に駐在してる!」とお気楽妻も擬似駐妻を主張。はいはい。
当日のメニューは、全員USA駐在だしアメリカ料理を作る?と主賓に尋ねると、NO!と反応。定番のビストロメニューを所望された。そしてNYC、D.C.、LAと皆さん凄いね、と問うと「LAって言うのは見栄で、ずっと田舎の方。宇都宮に住んでて東京に住んでます!って感じです」いやいや、宇都宮は海外から来たらTOKYOだよ。餃子も美味しいし、などと言うおバカなやり取りをして当日を迎えた。*宇都宮の皆さん、ごめんなさい。
スパークリングワインで乾杯の後、オードブルの盛合せからスタート。リクエストされたパテドカンパーニュ、キャロットラペ、紫キャベツのマリネの他、新作のアンチョビ・フキノトウが大好評。「えぇ〜っ!これ美味しい。良い香り!何なに?」「チコリと合うね、これ良いね」ふふふ、この後にさらなるアレンジが出るのだよ。バゲットを軽く焼き、クリームチーズと和えたアンチョビ・フキノトウを乗せたカナッペだ。
「キレー!皿も素敵!んで、美味しい♬」そんな最大級の、普段はお気楽妻からは発せられない褒め言葉をいただいてしまうと、嬉しいけれどテレるぜ。続いて「新玉ねぎのグリル ハニーマスタードソース」にはエディブルフラワーを添えて。料理は味はもちろん、見た目が大切。盛付けや料理そのものが見目麗しい、言い換えればインスタ映えする料理は目で美味しい。美味しそうに見えない盛付けや料理は損だと思うのだ。
例えば、その日のメニュー「サヤエンドウとラディッシュのサラダ」も、「パプリカとアンチョビのパイ」にしても、写真で美味しそうと思ってもらえるはず。味は所詮素人の域を出ることはなくても、視覚で味が何割り増しかになるのだ。と言う間に、ん?電話?誰だ?と思っていると、LAにいるはずの、と言うかいる、スカッシュ仲間(夫)の声が聞こえる。まさか。現地時間の朝5時前。アメリカは平日で、今日も仕事のはず。
その日の主賓が、ダンナがLAで独り寂しいだろうと慮ったのか、独り残され淋しかったのか、単に酔っ払っていたのか…。*多分これ。それでも健気な夫は、交代でLINE電話に出るその日のメンバーにきちんと挨拶し、半ば寝ぼけながらも会話する。なんと言う神対応。その後、駐妻それぞれの駐在時の秘話を明かしたけれど、ダンナの偉さを賞賛する声は止まず、その株は高止まり。主役は声だけで参加した駐在ダンナとなった。
宴の翌日、夜中に洗い物を済ませたお気楽妻は、朝から出勤。残った夫(ワタクシ)は、家事に励み、前夜の残り物で独りランチ。アンチョビ・フキノトウは温かいご飯の上で実にいい仕事をする。今頃サダコに変身した昨夜の主役は何をしているのだろうかと思いを馳せながら、LAのダンナは間違いなく仕事だよなぁと独りごつ。やれやれ。駐在は夫も妻も大変だし、その2人のバランスが大切なのだとしみじみ思う令和初日だ。
「IGAさんたちと一緒に本城さんに行きたい!」と、春先に新婚の奥さまからリクエストが入った。それは何を置いてもご一緒しよう!と言いたいところだったが、あいにく本城さんは長年患った膝の手術で入院中。退院できました!と言う女将さんのメッセージで営業再開を確認し、早々にお店に伺った。5人の予約ながらカウンタ席。全員での会話は難しいけれど、この店の醍醐味はカウンタ席でこそ深く味わえる。
退院おめでとうございますと本城さんに声を掛ける。「思った以上にリハビリ大変ですわぁ」と言いながらも、厨房で笑顔で元気に立働く姿を見るとひと安心。女将さんがSNSで発信していた大将の入院報告、リハビリ報告を心配しながら見守っていたお気楽夫婦。「10周年までには元気になってもらわんと」と優しくも厳しく寄り添っていた女将さん。2009年4月に独立し店を出し、今年で10周年。おめでたい節目の4月だ。
開業から3年で、7割が閉店すると言われている飲食業界にあって、10年続けるというのは大変なこと。ただ美味しいだけでは店は続かないはずだ。客がまた来たいと思う店を作るのは、味だけではなく、客とのコミュニケーション力が重要だ。ただ客と親しくなるというのではなく、その距離感の保ち方。食べて飲む数時間を心地良く過ごせるかどうか。そんな時間と空間をどのように作るかが、長く続く店の肝なのだろう。
この店、「用賀 本城」にはその時間も、空間も、もちろん素晴らしい料理がある。その日の料理も素晴らしかった。春を堪能させてくれる料理と器、盛付け、目と舌で春を味わう喜び。そして美味しい酒との組合せ。その日は、同行メンバーがワイン好きということもあり、スパークリングワイン(シャンドン)や京都丹波の白ワイン(ピノグリ)で京料理を楽しんだ。下戸のご夫妻だが、酒のラインナップも開店当初より充実して来た。
「これお酒がすすみ過ぎる!」メンバーのひとりが嬉しそうに嘆いたのは、鯖のへしこ。香りだけで1杯、ひと齧りで1杯と、呑んべに供するといつまでも飲み続けそうなひと品。そしてその日のメイン(私にとって)は、春の味の王様、筍だ。こんがりと焼かれた筍の芳しい香りが鼻孔をくすぐる。頬張ると春の味が口中に広がり、サクサクとした春の歯応えで身悶えしそうになる。文句なく旨い。幸福の味。
そしてその日のメインがもう一品。目の前で本城さんが包丁を入れていた牛肉が目に入り、余りにも美味しそうな塊を見て、ひと口だけ食べたいとリクエスト。すると本来のコースにはない料理をサッと出していただいた。これがまた絶品、焼いたイチボをひと口だけ味わうゼータク。そう言えば、先日妊娠中の友人をお連れした際も、別メニューを出していただいた。小さな店だからこその柔軟な対応が嬉しい。
「お客さまからいただいたんですけど、結構似てるって…」壁に小さな似顔絵イラストが飾ってあり、女将さんにあれは?と声を掛けるとハニカミながらそう答えてくれた。改めて店内を眺めると、他にも祝花などの10周年のお祝いの品が溢れ、そして何よりも幸福になる料理、愛される大将と女将さんの人柄が、イラストにも店の中にも溢れている。いい時間と空間。しみじみといい店だなぁと実感する。
「美味しかったです。一緒に来れて良かったです♬」初訪問だった友人たちも満足そう。10周年の記念といただいたオリジナルワインを抱えて店を出る。本城さんと女将さんが店先で見送ってくれる。「おかげさまで10周年を迎えられました。11年目もよろしくお願いします」と声を揃えて。こちらこそ!本城さんとは「たん熊」から13年のお付き合い。いい店と人と出会い、長くお付き合いできる幸福も味わう夜だった。