食事の後は…「カラオケ三都物語」

P101089420年ほど前、カラオケボックスは日本にまだなかった…と言っても、今や誰も信じないだろうけど、日本初のカラオケボックス登場は1985年。岡山にできた貨物用コンテナを改造したものだった。その頃、20代の私は、仕事を終えて一杯飲んで、「カラオケでも行くか!」というと、新宿3丁目の「テアトロン」というステージ付きの専門店で順番を待って歌うか、2丁目の「テアトロン2」という姉妹店(カセットテープで何千曲も揃っているような店だった)で朝まで歌うか、「甲山」というオカマバーでマスター(ママ)に身体を触られながら歌うか、というのが常だった。

1990年。出張先の台北で、衝撃的な出会いをした。「K-TV」と呼ばれるカラオケボックス。店の名前は「銭箱(キャッシュボックス)」。倒産したホテルを改装して、今では当たり前の室内電話でドリンクをオーダー、自分で選曲というシステムを個室でサービスしていた。「便利だねぇ!これ、日本でも流行るんじゃない?」台北で夜な夜な、怪しい北京語で「チャゲ飛」の『万里の河』とかを絶唱し、“Mr KTV”という名を欲しいままにした。そして翌年、日本でもカラオケボックスが大ヒット。今でも思うことがある。あの時、私に独立の気概と、資金があれば…。人生はそんなものである。

2002年。私は上海と香港の出張で明け暮れていた。香港では、あるIT企業とJVの構想。打合せの後、社長の行きつけの広東料理店でワインを誉めるとラベルをいただき、“紅酢”を誉めると瓶ごとおみやげにいただいた。玉置浩二ファンだという彼は、自分の車の中でも「安全地帯」のナンバーを流し続けていた。そこで私は、連れて行ってもらった二次会の高級カラオケスナックで玉置浩二の楽曲を歌い続け、絶賛された。そして、なぜかプロジェクトは見事に頓挫した。

2006年。スカッシュ仲間と二子玉川にあるヴェトナム料理「ジャンズ」で食事。美味しい料理に調子づき、二次会はカラオケボックスへ。メンバーはなかなかの歌上手。GO!GO!と、盛り上がっているところに、見覚えのある顔が通路側の窓からのぞく。同じスクールのスカッシュ仲間で、酔っ払いの仲間たち。ありゃりゃ。一緒に来たメンバーとエレベータの前で別れた後に、彼女たちの部屋へ戻り、カラオケのはしご。採点システムで盛り上がる体育会系カラオケ。「コブクロ」を歌って玉砕する。…カラオケとはもう、20年以上のお付き合い。上手かろうが、下手だろうが、“歌う”ってことは、気持良い。さて、今日は「SAS」と「Yuming」限定の、夫婦カラオケでも行きますか!

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