現実の隣に『すきまのおともだちたち』江國香織

Photo実の(ところで、現実ってなんだろう?唯一のものなのだろうか?)すぐ隣に、現実の地続きのような物語が待っていて、その2つの世界の時間はどうも流れ方が違っているらしい。江國香織の描く世界は、この『すきまのおともだちたち』に限らず、現実感がありながら、どこか別の物語世界が織り込まれている不思議な世界を描いていることが多い。自分が目で見て、手で触れて、臭いが嗅げて、味わえるのが現実の世界だとしたら、その物語の中で、見て、感じて、味わえる世界も現実と言えるわけだし。『すきま・・・』の中の9歳の少女が野球場で売っているレモネードの味は、(飲んでいないけれど)私にははっきりと分かったし、彼女と一緒に住む<お皿>が車を運転することも違和感はなかった。『アリス』に出てくるウサギと同じように。

は江國香織が苦手だ。ふわふわの髪や、夢々しい(と彼女は表現する)ファッションや、インテリアが苦手だ。パステル調の色彩が苦手だし、自分には似合わないと主張する。1人娘だったのに、彼女の部屋にはぬいぐるみがひとつもなかった。かと言って彼女が現実的だというのではなく、合理的だと言う方が当たっている。それらの事柄と國香織が苦手だということが、関係しているのか、関係していないのかは良く分からない。けれど、彼女は、この鮮やかなブルーの地に、9歳の女の子のイラストが描かれた夢々しい装丁の本を、自ら決して手に取らないだろうことは確実だ。

Photo_2ころで、私は江國香織の本を好んで読む。童話作家として世に出た彼女のこの本の、柔らかな文章も、「こみねゆら」さんの挿絵も、気に入っている。現実の“すきま”世界に変らず存在する9歳の少女も、偶発的に(何度も)そこに住む“おともだちたちを訪ねる“ミス郵便局”と呼ばれる主人公も。けれど、妻には決して薦めない。以前、國香織の作品の何冊かを選りすぐって薦めたところ、どうもぴんとくることがなかったどころか、彼女の好みと対極にありそうな気配がしたからだ。彼女と共有できるのは、ロバート・B・パーカーであり、マイクル・クライトンであり、村上春樹であり、山田詠美浅田次郎であり、ぎりぎり奥田英朗。私と妻の求める物語の重なりとズレ。

國香織の作品であるということだけではなく、私が本屋でこの本を手に取った訳がもうひとつある。(小声でばらすけれど)私が好きだった大島弓子のタッチにちょっと似ていたということ。(もっと小声で)実は、私はかつて、花の28年組と呼ばれた、萩尾望都、大島弓子をはじめとして、山岸涼子、内田善美、山本鈴美香、くらもちふさこ、吉田秋生など少女マンガが好きだったのだ。特に、『綿の国星』の主人公、須和野チビ猫の住む世界は、現実と地続きでありながら、明らかな異世界が展開していることが、ことに魅力的だった。痴気情事(チキジョージ)という、吉祥寺と良く似た街が登場し、キャラクターと見事に合った洋服を着た猫たちの視線で、人間世界と猫世界が描かれる。それも、漱石の『我輩は猫である』の世界観とは全く違った、猫独自の世界が。「ん~、また今日の記事は良く分からんねぇ」と妻。趣味も嗜好も生活スタイルもほぼ一緒のお気楽夫婦、こんなズレが合っても良いんじゃない?

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