故郷の父、逝く「幸福な最期」
2013年 6 月08日(土)
覚悟はしていた。同時に、快復の期待もしていた。4月の一時帰宅の際に、退院したらゴルフクラブを1本だけプレゼントする約束をした。運動不足だから庭で素振りをするのだと朗らかに笑った。ゴルフなどに縁のなかった父なのに。2月に入院しておよそ100日。休日の朝、病院で付き添う弟から父の意識が薄れているとの緊急連絡。慌てて荷物をまとめ、羽田までタクシーで向かい、車内で予約した飛行機に搭乗。迎えに来てくれた弟の車で病院に向った。穏やかな顔のままで、酸素吸入器を付けているのが不自然なほどの、我々が到着してからほんの10分ほど後の、眠るような最期だった。「待っていてくれたんだよ」という伯母たちの声。それを弟の号泣がかき消した。
父のベッドの周りには、父の兄がいた。姉がいた。妹たちがいた。息子たちがいた。孫たちがいた。多くの親族たちに見守られて父は逝った。最後の数年間は病に苦しんだとは言え、充足した生涯だった。地域社会の中でリーダーとして活動し、山を歩き、野草を撮影し、地方史を研究し、句会を主宰し、バレーボールのコーチを務め、子供を育て、妻を介護した。「好きなことやった人だもの」伯母たちが口を揃える。そして、涙を拭いた後の弟は見事だった。喪主として、葬儀や直会のやり方にひと言ある街の重鎮たちを抑え、しがらみに妥協もしつつ、自分たちのやり方で準備を行った。そして手作り的な温かい通夜、葬儀を自宅と菩提寺で行い、父を送った。父母と一緒に故郷の街に暮らし、父と共に母を送り、父の世代との交流も含めネットワークを広げてきた、弟でなければできなかったミッション。
「私が今、子供たちにやっていることは、全て父が私たちにやってくれたことでした。父を亡くした悲しさよりも、人生の先輩を失った悲しみが勝ります」3人の子供を育てる弟。喪主としての挨拶も立派だった。親族代表として弔電を読み上げた長男も、受付周り一切を仕切った長女も、弟のことばを見事に体現していた。こうして、父の肉体は滅びたけれど、故郷を愛した父の意志は継がれて行く。父母が逝き、私にとって故郷の意味は変わってしまうけれど、なくなりはしないことを感謝したい。この街には彼らがいてくれる。父はきっと安心して逝ったに違いない。微笑んで母の元に旅立ったに違いない。
「葬儀とは別に“偲ぶ会”をやろうと思ってね」と弟。父の撮った野草の写真パネルを会場に飾り、希望者に贈りたいのだという。さらに、父の書斎にある地方史の研究資料や、父が発刊した写真集も、地元の施設に寄贈されるという。こうして父の存在した痕跡も残される。「こんな時に父が生きていたらこんなことを言ったかもしれない、こんな方法を選んだかもしれない、そうやって思い出してやってください」弟の喪主挨拶はそう続いた。「良い葬儀だったね。こんな風に送られるのは幸せなことだよね」ずっと傍らにいてくれた妻が呟いた。そんな妻にも感謝。
ミッちゃん
弟様が今日写真展を開いてくださり見せていただきました。
改めてお父様のステキな感性に触れまた(;_;)し、ほんの数ヶ月でしたが私もステキな時間を過ごさせてきただきました。
ステキなご家族に出会い感謝です。
ありがとうございましたm(__)m
IGA
みっちゃん、父の最後の数ヶ月、ほんとうにありがとうございました。父が一時帰宅できたのも、みっちゃんのPower of Love だったと思います。49日法要でぜひご一緒できればと思います。詳しくは弟に問い合わせてください♡