Archive for 9 月 19th, 2009

バトンパス!『一瞬の風になれ」佐藤多佳子

一瞬の風になれ(1)ベルの違いはあれ、妻も私も陸上選手だった。それもトラック、短距離の。ただし、2人とも中学時代だけの陸上競技部所属。100mのベストタイムは忘れてしまった。私としてはうやむやにしておきたい処だけれど、どうも妻のベストタイムの方が速かった気配がある。妻は幼なじみに久しぶりに会うと「足が速かったよねぇ」と必ず言われる。それ程に印象的なスプリンターだったらしい。陸上競技場などの映像を目にすると「ここでスパイクを履いて思いっきり走ったら気持良いだろうねぇ」と言う妻のことばに頷く。今、100mを全力疾走したらどれくらいのタイムで走れるのだろう。そんなことを言い合うお気楽夫婦。血中濃度は薄まったとはいえ(特に私の場合は3流とはいえ)スプリンターの血がまだ流れている。

一瞬の風になれ(2)んな2人がハマった小説がある。2007年 本屋大賞を受賞した、佐藤多佳子の『一瞬の風になれ」。2004年の小川洋子『博士の愛した数式』、2005年の恩田陸『夜のピクニック』に続く女性作家の本屋大賞受賞作。1巻(イチニツイテ)、2巻(ヨウイ)、3巻(ドン)の3冊の表紙のイラストを繋げると、バトンリレーのシーンになる。前走のランナーが懸命にバトンを渡そうとし、バトンを受け取る次走のランナーが加速し始めようとする瞬間のシーン。この作品のエッセンスは、このイラストに描かれる一瞬に凝縮されている。読み始めるとゴールまで一気に(スプリンターのように)読んでしまう。リレーの選手になったことのない人でも、読み終わった後にこの表紙を眺めると、読後の満足感と共に、バトンを上手に受け取った爽快感を感じることができる。ゴールを走り抜けた風を感じることができる。そんな作品だ。

人公は中学時代に打ち込んだサッカーに限界を感じ、「ボールなんてなけりゃ、おまえ、もっと速いのに」という幼なじみで天才的なスプリンター連くんのことばをきっかけにトラックを走り始める新二くん。この2人が可愛いのだ。2人のやり取りが実に良いのだ。佐藤多佳子は実在する彼らの隣にこっそりと座ってメモを取っているんじゃないかと思う程、リアルな高校生の会話を紡ぐ。400mリレーを「4継」と呼ぶなどの陸上競技用語を駆使して、さらっと陸上競技の世界に読者を招き入れる。スターターが鳴らすピストルの音が聞こえてきそうな程、競技開始前の緊張感を丁寧に描写する。連くんや新二くん(ついつい「くん」呼び)と一緒に走り出してしまいそうになる高揚感を織り込む。そう、読んでいて気持が良いのだ。走るシーンだけではなく、後輩と先輩の関係も、キャプテンとしてチームをまとめようと悩む姿さえも。そして新二くんがスプリンターとして、人間として成長していく姿が。

一瞬の風になれ(3)の作品を読みながら、こんなまっすぐで、こんなに純真で、こんなに一所懸命な高校生って実在するか?そんな疑問も浮かんでしまう人もいるだろう。でも、いて欲しい。いやきっといるのだ。少なくとも、佐藤多佳子が描くこの作品の中では確実に存在し、彼女の描いた高校生たちの物語を受け取った私が、こうしてその作品を紹介する。私までバトンは繋がった。そのバトンを上手く渡せるかどうかは私の記事次第。う〜む。「まぁ、読めば分かってもらえると思うよ。かなり面白かったし」と妻。そうではなくて、ネタバレせずに、いかに読んでいない人にも面白そうだと思わせるか苦心しているのであって。「ん〜、バトンパスって練習で上手くはなるけど、同じぐらいの走力じゃないとスピードは伝わらないしねぇ」なるほど。少なくとも妻には伝わったらしい。

は言え、読んでみて欲しい。書店員が選ぶのが「本屋大賞」なら、お気楽夫婦が薦める「お気楽読者大賞」。『一瞬の風になれ』秋の夜長におススメ。

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